2017年1月29日日曜日

人生という名の宗教

どのような価値基準で生きるか、ということは我々にとって重要な課題だ。
そして、我々が何かに対して評価を加える時、我々は逆に、価値感の奴隷となる。

「お金を稼ぐのが偉い」
「仕事ができるのが偉い」
「異性にモテるのが偉い」
「結婚して子をもうけるのが偉い」
「神を信仰するのが偉い」

良くも悪くも、我々はこういった社会的洗脳の下で生きている。(この言葉が激しく聞こえるなら、これを「空想」と読み替えても良い)
洗脳の存在しない社会は、そもそも社会として存在しない。
それでも洗脳から自由だと思っているのは、我々は「自分自体にかけられた洗脳」は、盲点として見えないように作られているからだ。

ダメだ。そんなことは忘れて、自分自身の人生を生きよう。
外面的な価値基準を捨てて、内面の価値基準に従って生きる方がずっと良い。
そして最後に「ああ、良い人生だった」と思ってこの人生を終えよう。
それが「本当に重要なこと」であり「良いこと」なのだ。
周りに振り回されず、自分の心に従って生きることが重要だ。

さあ、あなたはついに「最も大事なこと」に目覚めた。
だが、しかし、本当にそうだろうか?


「お金でも仕事でもなく、もっと重要な事が、人生にはある」
「後悔しないような人生を生きたい」
「人生でほんとうに重要なことをやり遂げたい」

「外面的な評価基準」を捨てて、新しく「内面的な評価基準」を選ぶ。
しかし、このように、より好ましく見える新しい評価基準を選んだとしても「評価する」ということ自体の呪縛からは自由ではない。
古い契約書を捨てて、新しい契約書にサインする。だがこれが契約であることに変わりはない。

なぜ僕たちは、世の中には「良い人生」と「悪い人生」があると思うのだろう。
どうして人生に価値の順番をつけようとするのだろうか?


時代によって、洗脳の種類も変わる。
「より古い洗脳」が「より新しい洗脳」を塗り替えて、我々は「真実に近づいた」ような気持ちになる。
だがそれは実は「より古い奴隷主」が「より新しい奴隷主」に変わっているだけなのではないだろうか。
ある種、我々が洗脳を受けた奴隷であることには変わりがない。

「評価する」という行為は、我々の文化にあまりにも深く根付いており、もはや見えないぐらいに思考体系をコントロールしている。
これはもはや我々の血肉と言っても良い。このため捨てることは容易には出来ない。
だが、この「評価する」という行為は、たとえ人類全体には寄与しても、個人にも寄与するとは限らない。


ひとつのやり方は、自分にとってベストな評価基準を選び、それに従って生きること。
もうひとつのやり方は、評価することを一切をやめてしまうこと。これはなかなか難しいが、個人の幸福には寄与する可能性がある。

ちなみに「幸福」は実在する。
我々が感じ取っているもの総体の呼び方だからだ。


僕は「どのような評価基準で生きれば、一番幸福なのだろう」ということで、たびたび悩みを感じていた。
どうすれば一番良い人生を生きられるのだろうと考えていた。
だが、永遠に答えは見つからないような気がしていた。

それも当たり前だ。「良い人生と、悪い人生がある」と考えている時点で。
「人生の良し悪し」を価値基準にしている時点で、それは既に負けが決まったゲームだったのだ。
なぜなら「人生」という概念もまた、人間が作り出した空想にすぎないからだ。

なので今僕は「人生」という名の宗教から脱出しようとしている。

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