2017年2月26日日曜日

「悲しまれる死」「悲しまれない死」

「僕が死んでも誰も悲しまない」
「僕が死んだら誰か悲しんでくれるだろうか」

こういう言葉を、耳にする機会がある。
小説や、エッセイや、誰かの思い出話の中で。
なかなかに、かなしげな言葉だと思う。

だけど僕は、自分が死んでも、誰も悲しまない人間になりたい。

「死が惜しまれる人間」
「死んだ時に、多くの人に悲しまれる人生」
「これこそが、人生の本質であり、人間の価値だ」

そんな人生観がある。
だけど、これを僕は信じない。

人の悲しみの度合いによって、人間の価値が決まるなんていうのは嘘だ。

仮に「悲しまれる死」の価値が高いとする。
ならば、逆に「悲しまれない死」の価値は低いということになる。
仮に「惜しまれる人間」にこそ、人として重要な価値があるとする。
ならば「惜しまれない人間」には、重要な価値がなかったということになる。


これは「死」をもってして、人間に価値の序列を付けているだけだ。
いかにも「本質的」な顔をしているけれど。
「死」というモノサシにおいてであっても、僕は人間の価値に序列をつけるような価値観は、採用したくない。

死によって証明されるのは、人間の価値ではない。
証明されるのは、悲しんだ人の、愛の深さだけだ。
(そして、より愛された人間にも、より愛されなかった人間にも、価値の違いがあるわけではない)


もし仮に人間に「価値の違い」があるとすれば、それはこの世界で、仮のゲームを楽しんでいるだけだ。


なので僕はたとえ自分が死んでも、誰に悲しんでほしいとは思わない。
(どうか、穏やかな気持で生きてほしいと思う)

僕は「人が悲しむような生き方」を目指して、いまを生きたくないと思う。
誰が悲しんでも、悲しまなくても、命は生まれたり、消えたりして、連綿と続いてゆくものだ。
「惜しまれるような人になりたい」というのは、あくまで人間の世界の考え方だ。
生命の世界においては「悲しまれるほど価値がある」という考え方は存在しない。


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ところで、こんな記事を書くからといって、別に僕は決して、いま死のうとしているわけではない。
だが「人間はいつか死ぬ」というのは、ワイドショーの話題にはならないものの、厳然とした事実である。
ハリウッド映画のテーマにこそならないものの、必ずいつかは起こる出来事だ。


しかし僕は例えば、自分が老齢に差し掛かってから「死」について考えるよりも、なるべく若いうちに、この問題を解決しておきたい。
それは「死は全く問題ではない」ということだ。

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