2017年2月26日日曜日

「悲しまれる死」「悲しまれない死」

「僕が死んでも誰も悲しまない」
「僕が死んだら誰か悲しんでくれるだろうか」

こういう言葉を、耳にする機会がある。
小説や、エッセイや、誰かの思い出話の中で。
なかなかに、かなしげな言葉だと思う。

だけど僕は、自分が死んでも、誰も悲しまない人間になりたい。

「死が惜しまれる人間」
「死んだ時に、多くの人に悲しまれる人生」
「これこそが、人生の本質であり、人間の価値だ」

そんな人生観がある。
だけど、これを僕は信じない。

人の悲しみの度合いによって、人間の価値が決まるなんていうのは嘘だ。

仮に「悲しまれる死」の価値が高いとする。
ならば、逆に「悲しまれない死」の価値は低いということになる。
仮に「惜しまれる人間」にこそ、人として重要な価値があるとする。
ならば「惜しまれない人間」には、重要な価値がなかったということになる。


これは「死」をもってして、人間に価値の序列を付けているだけだ。
いかにも「本質的」な顔をしているけれど。
「死」というモノサシにおいてであっても、僕は人間の価値に序列をつけるような価値観は、採用したくない。

死によって証明されるのは、人間の価値ではない。
証明されるのは、悲しんだ人の、愛の深さだけだ。
(そして、より愛された人間にも、より愛されなかった人間にも、価値の違いがあるわけではない)


もし仮に人間に「価値の違い」があるとすれば、それはこの世界で、仮のゲームを楽しんでいるだけだ。


なので僕はたとえ自分が死んでも、誰に悲しんでほしいとは思わない。
(どうか、穏やかな気持で生きてほしいと思う)

僕は「人が悲しむような生き方」を目指して、いまを生きたくないと思う。
誰が悲しんでも、悲しまなくても、命は生まれたり、消えたりして、連綿と続いてゆくものだ。
「惜しまれるような人になりたい」というのは、あくまで人間の世界の考え方だ。
生命の世界においては「悲しまれるほど価値がある」という考え方は存在しない。


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ところで、こんな記事を書くからといって、別に僕は決して、いま死のうとしているわけではない。
だが「人間はいつか死ぬ」というのは、ワイドショーの話題にはならないものの、厳然とした事実である。
ハリウッド映画のテーマにこそならないものの、必ずいつかは起こる出来事だ。


しかし僕は例えば、自分が老齢に差し掛かってから「死」について考えるよりも、なるべく若いうちに、この問題を解決しておきたい。
それは「死は全く問題ではない」ということだ。

「自分を幸せにすること」が夢で何が悪いの?

僕たちはそれぞれ「自分」を1個ずつ与えられている。
この1個の幸福のために生きることは、決して悪いことじゃない。

「自分の幸福を追求する」というと、どことなくエゴイスティックな感じを受ける。
なにか悪いことをしているような気分になる。
だけど、いちばんよく自分を知っているのは自分なのだから、幸福になる方法を一番よく知っているのも自分のはずだ。

だから「自分」を幸福にする役割は、それぞれの「自分」に与えられていると考えられる。


ところで、

自分「が」幸せに「なる」こと
自分「を」幸せに「する」こと

このふたつは、似ているようで微妙に違う。


後者の「自分を幸せにする」というのは、自分という存在を客観視して、
「こいつを幸福にしてあげよう」と見守ってあげることだ。
「自分」が「自分に与えられた命」を幸福にする、と考えても良い。


自分は、他人だ。
自分を幸福にするということは、ひとりの他人を幸福にするということだ。



僕らは、もし長ければ100年もの間、ひとつの命と付き添っていくことになる。
この「自分(1)」という奴は、ずっと「自分(2)」と一緒にいて、すべてを経験することになる。


世間ではこう言われる。

自分のことしか考えていない人間はエゴイスティックだ。
他人に貢献するほうがずっと良い生き方だ。
マザーテレサは多くの他人に愛を与えた。
キング牧師は多くの他人の幸福のために生きた。
だから偉い。だから尊い。


だけど、僕らがそれぞれ1個ずつ与えられた「自分」というやつを幸福に出来ないとしたら、それは他人に貢献できないことよりも、ずっと罪深いことではないだろうか。


この世界にいま70億人ぐらいの「自分」がいるとしよう。
それぞれがまず、この「自分」というやつの幸福に貢献することが出来る。


僕は今朝、このように考えた。


世間においては「自分の幸福のために生きる」ということは、エゴだといわれる。
事実、他人に迷惑をかけながら、自分の快感だけをむさぼろうとする人もいる。
だけどその反対に、自分の幸福を否定して、いつまでも幸福になれない人もいる。

もちろん他の人を不幸にしてはいけない。
だが「自分を幸福にすること」自体が、尊いのだ。
たとえ、それが社会的に何の役にも立たなくても、外面的には何を成し遂げなかったとしても、尊い。

こう考えてみよう。
たとえば世界中の70億人すべてが「自分の幸福」を否定したとしたならば。
誰がどれだけ「他人」に貢献したって、誰ひとり幸福になれるはずがない。
なぜなら、誰もがすべて、自分の幸福を否定しているのだから。


その逆に、70億分の1の生命を幸福にすることは、70億分の1に貢献することだ。


僕は意識のベースの部分で、自分を1個の、尊重すべき対象として扱えていなかった。
最も大事な対象であるはずなのに。


「夢」というと、他人を助けることや、外面的な成功を成し遂げることが認められる。
まるで、世界の中で「自分」だけを空洞にして、ほか全ての「他人」を埋めようとしているような感じだ。


けれど「自分を幸せにしてあげること」が夢で、一体何が悪いのだろう?



2017年2月25日土曜日

「意味」は存在しない

「意味」の起源を知っているだろうか。
それは「メッセージ」に対する「理解」だ。

たとえば、猿が甲高く声を上げたとする。
それは「敵が来た」というメッセージだ。
「甲高い声」という「メッセージの意味」を理解することで、意図の交換がおこなわれる。

このように「意味」は「メッセージ」に対して存在する。
逆に言えば、そもそもメッセージが発せられていないものに対しては、原理的に「意味」は存在しない。

だが、我々の言語は高度に発達しており、容易にこの起源は忘れられる。
「意味」というもの自体が、まるで物事の実体であるかのように考える。
なのでそもそも「メッセージ」ではないものに対して、過剰に「意味」を求めようとする。

たとえば「生きる意味はあるのか」「人生の意味とはなんだ」なんてことを、たまに人は考えたりする。
だが決して答えは見つからないはずだ。
なぜならそこには、そもそも「メッセージ」が存在しているわけではないからだ。
メッセージのないものを理解しようとしても、そこに明確な意味など見つかるはずはない。

我々の文化はあまりにも「意味を理解すること」を土台に作られているから、「意味」そのものが独り歩きをしている。


2017年2月23日木曜日

「人に好かれたい」は危ない世界観

人に好かれるのは嬉しい。
嫌われるよりも好かれた方がいい。

だけど「好かれることを目指す」のはわりと危険だ。
「好かれるか、嫌われるか」という基準を持つこと自体が危うい。

チョコレートがいかに美味くても、チョコレートを食べるためだけの生活が幸福とは限らない。
「好かれること」が一瞬、いかに嬉しくても、「好かれることを目指して生きること」が幸福とは限らない。

たとえば「人に好かれたすぎる自分」をある部分、諦めるために、
「すべての人に好かれることは出来ない」と言ったりする。
けれど、これもまた「好かれるか」「嫌われるか」という評価軸で世の中を見ている事自体が、もう既に危ない。

そして「人に好かれたい」「人に嫌われたくない」という考え方は、自分主体の価値観だ。
なにかがズレている。人に好かれようと考え始めた時点で、自分中心の世界観を描いているように思う。

だけど、こう考えてみることも出来る。
人と「良好な関係を築くこと」ならば可能だと。
そのために努力することも出来る。

「人に好かれたい」という考え方とは逆に、
「関係を築く」というのは双方向の考え方だ。

すべての人に好かれることは出来なくても、すべての人と、できるだけ良好な関係を築こうと努力することは出来る。

2017年2月19日日曜日

コーヒーメイカーをやめてボダムのフレンチプレスを買うまでの道のり | コーヒー超初心者の挑戦

よくインスタントコーヒーを飲む。
マウントハーゲンのカフェインレスだ。
(カフェインレスコーヒーのインスタントは数が少なくて、Amazonで買えるのも4種類ぐらい)

だが、自宅で美味しいコーヒーを飲みたくなった。
「インスタントコーヒーで十分満足だ」と思うものの、やはりスタバや、こだわりのあるカフェで飲むコーヒーは、もっと美味しい。
(コーヒーに力を入れている店と、入れていない店の違いぐらいは分かるようになった。隠れ家的な洒落たカフェなのに、インスタントコーヒーより味が落ちるのを出す店もある)

だが、そもそもコーヒーをどう淹れるのかが分からない。
コーヒー豆が存在する分かる。
だけどインスタントコーヒーと、インスタントコーヒーじゃないのにサラサラした粉の違いが分からない。

- インスタントコーヒー => お湯を入れればOK
- コーヒー豆 => 作り方は?
- 挽いた豆 => 作り方は?
- 他にも種類がある?

ぐらいの理解だった。
ネフカフェのバリスタ(コーヒーメイカーではなく、インスタントコーヒーメイカー)にレギュラーコーヒーを入れて、壊したこともあるぐらいだ。

とりあえず「コーヒー豆」よりは難易度の低そうな「インスタントコーヒーじゃないのにサラサラした奴」に挑戦することにした。
どうやらこれは、コーヒー豆を挽いたものらしい。
コーヒー豆は挽いて使うことは、もちろん知っていたが、市販されているのが「コーヒ豆とは全く別系統のもの」ではなく「コーヒー豆を挽いた状態のもの」だとは知らなかった。

ということはコーヒー豆を自分で挽くか挽かないかの違いがあるだけだ。
だんだんぼんやりと、世の中には「レギュラーコーヒー」と「インスタントコーヒー」の二種類しか存在しないことが分かり始めた。(本当だろうか?)
インスタントコーヒーと区別するために、レギュラーコーヒーという言葉があることも知った。

そしてここまで理解したは良いものの、「コーヒーの淹れ方」や「淹れるための器具」にもいろいろな種類がありそうだ。
こちらも理解する必要がある。(なぜなら、淹れ方を理解していないコーヒーは淹れられない)

「コーヒー 淹れ方」で検索すると、
「ハンドドリップ」というやり方では「ペーパーフィルタ」「ドリッパー」「サーバー」「ドリップポッド」「カップ&ソーサー」が必要らしい。
1杯のコーヒーを淹れるのにもこんなに道具を使わなければいけないのかと思い、挫折しそうになった。

特によく分からなかったのが「ドリッパー」で、こいつはいかにもマグカップみたいな形をしておいて、取っ手まで付いているにも関わらず、ペーパーフィルタを固定するための台に過ぎないらしい。
「ドリップポッド」は要するにヤカンだ。
「サーバー」は抽出したコーヒーを入れておくためのもの。
コーヒーをたくさん作っておいて、少しずつカップに注ぐんだな。

こんな風に、ネットで色々と調べているうちに、基本的には「ペーパーフィルタ」と「お湯」さえあればコーヒーが淹れられそうだ、ということが分かってきた。

そこで手始めに、コンビニでペーパーフィルタ付のドリップコーヒーを買って、試してみることにした。
(ペーパーフィルタとレギュラーコーヒーと紙のドリッパーが合体しているやつだ)
だがこれでもけっこう面倒で、200mlのコーヒーを作るために、けっこう時間をかけなければいけない。
美味しく手軽にコーヒーを飲むには、やはりコーヒーメイカーが必要だな、と思った。


家電量販店には基本的に、試飲コーナーさえない。
これがまた僕を悩ませた。どうやって買う判断をすれば良いのだろう。

コーヒーメーカーもピンキリで、1000円のものから数万円のものまである。
だがここまで値段に差があるということは「1000円以上は、付随価値」だという風に理解した。
つまり、1000円のコーヒーメイカーでも、数万円のコーヒーメイカーでも、ドリップコーヒーの美味しさ自体には違いはないんじゃないだろうか。
そもそも、ペーパーフィルタを通してお湯を注ぐだけなのだから。


コーヒーメイカーを選ぶにあたって「なるべく手軽なのが良い」と思った。

あとは「コーヒー豆を挽けるタイプかどうか」は選びどころだった。
あんまり最初から頑張りすぎても、コーヒー豆を挽くまではやらないかもしれないし。
かといって後から「コーヒー豆を挽いて飲みたい」と後悔するのは嫌だし。
結論としては「コーヒー豆を自分で挽きたくなったら、別売りのミルを買う」という手があることに思い至って、コーヒーメイカー自体はドリップだけ出来るものに決めた。

ペーパーフィルターを使うタイプか、メッシュフィルターを使うタイプかも悩んだが、これも「後から別売りのメッシュフィルターに差し替える」ことも出来そうな感じなので、シンプルにペーパーフィルタータイプのものを買うことにした。
(コーヒーメイカーとフィルタは分けて考えたほうが良い、と価格.com の口コミにあって、助かった)

サーバーはステンレスのものに決めた。
コーヒーが煮詰まらずに美味しいままで保てるらしいし、あとは、ガラス製のサーバーを落として、部屋で割った時の悲惨さを想像したから。


そして最終的に象印かタイガーかで迷い、タイガーのステンレスサーバー製のコーヒーメイカーに決めた。
だが最終決定を下した1分後に「フレンチプレス」というものを見つけて「なんだこれは。。」と目を引かれた。
ここまで時間をかけて決めたのに、またひとつ選択肢が増えてしまった。

10分ほど携帯で検索したりして悩んだ結果、
Amazonで「ボダムのフレンチプレスコーヒーメーカー (ステンレス製)」を注文したのだった。






あまり図体がでかくなく、シンプルで小回りが効きそう。デザインもたぶん悪くない。
ペーパーフィルタを使わないところも良い。

一番の問題は「手間」だったのだが、
どうせ電動のコーヒーメイカーを買っても、水を入れ替えたり、ペーパーフィルタを入れ替えたりする手間が発生するから、こちらの方がむしろシンプルなオペレーションになるのではないかとう判断だ。


ということで、こいつを注文した帰りにスターバックスで「デカフェのハウスブレンドの豆」を買って帰り、今は自宅でフレンチプレスコーヒーメイカーの到着を待っているところだ。
(コーヒー豆を買うことにさえ慣れてないから「挽き方はどうされますか?」「ペーパーフィルタを使われてますか?」と聞かれてギクッとした)

果たしてこいつを愛用するかどうかは、使ってみなければ分からない。
「やっぱり、インスタントコーヒーが手軽だよね」って思うかもしれない。


そもそもコーヒーの淹れ方を知っている人にとっては笑える話だろうが。
コーヒーの世界は複雑に進化し、このように、初学者には非常に難易度の高いものであった。
豆に種類があり、淹れ方に種類があり、器具にも種類があり、それぞれが多様に分岐しているからだ。



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追記:

美味い! 当たり前かもしれないが、スタバで飲むのと同じ味がした。
豆の値段を計算するとマグカップ1杯で100円以上にはなりそうなので、インスタントよりかなり高額なことが分かった。(スタバのカフェインレスの場合)

たまの贅沢には良いかも。





2017年2月18日土曜日

ヤマトの家財宅急便でマッサージチェアを送った話

[料金内訳]

機種 フジ医療 サイバーリラックス AS-1000

配送料 19170円 ( ランク E )
分解 3240円
組立 4860円
保険 600円 (30万円分保証)

合計 27670円


時は2月。
ちなみに、ウェブから他の引越し屋さんに見積もりをお願いしても、全社これより高額だった。
(平日の、時間指定なしの便でも 4万円近い見積もりだった)


[作業]

ところでこれ、最初に家電量販店で購入して搬入してもらう時は、業者名は忘れたけど、やけに時間がかかった。
室内のドアを外したり、洗濯機を部屋の外まで出したり、「部屋の中に傷がついても文句言いません」って誓約書みたいなのを書いたり、なかなか手順が多かった。
(洗濯機は何故か、僕がひとりで運んだ)
全作業に1時間ぐらいはかかった。


しかし、ヤマトの家財宅急便の人は、ドアを外したり、洗濯機を外に出すこともなく、いつの間にかマッサージチェアを室外に搬出していた。
組立・解体の説明書も、始めて読むもののはずなのに、15分ほどで全ての作業が終わっていた。
一体どんな魔法を使ったんだろう。


[経緯]

ヨドバシカメラの体験コーナーで選びに選び抜いて、当時の最上位を買ってから1年が経過。

一時期は本当に肩がこって、どうにか解決したいと思っていた。
毎日マッサージチェアに乗っていて「これがあるから生きていられる」ぐらいの状況だった。

肩こりが、全ての苦しみの50%を生み出していると思えるぐらい辛かった。
「これさえなければ、よほど日常や仕事が楽しくなるだろう」という状況だった。
姿勢を意識したり、PCを触る時の体勢を工夫したり、こまめに肩を回したり、腕立て伏せをしたり、あらゆる手をつくしても解消しないので、困り果てていた。
だからマッサージチェアは救世主のような存在だった。

しかし1年が経過し、1ヶ月間も2ヶ月間も、体がマッサージチェアを必要としなくなった。
なので実家に送ることにした。
35万円分のプレゼントだ。
(まあ中古だし、1年経過した今は、もっと安くなっていると思うけれど)

本体の1/10ほどの値段の配送料がかかったけれど、このまま部屋でスペースを取りながら腐らせるよりは、家族に喜んで、重宝してもらった方がずっと良い。

肩がこらなくなった、具体的な理由は分からない。
仕事に体が慣れたのか、PCに向かう角度の問題なのか、それとも半年前に瞑想を始めたからなのか。
おそらく無意識の体の緊張が、肩こりに大きな影響を与えていたのだと思う。


しかしマッサージチェアがなくなって、部屋の片隅にかなりのスペースが生まれてしまった。
空白が出来たら埋めたくなるのが人間のサガで「ここに何を置こうかな」と考えてしまう。


一拍置く人 | 人間ディレイさん


「あ、また同じ間のとり方だ」。

人間ディレイさん。

何か人と違う「特定の間」がある人。
僕は今までで3人、まったく同じ間のとり方をする人と話したことがある。


たとえば僕が彼と話す。
その人は必ず1秒だけ硬直する。
表情も変わらない。決して考え込んでいる風でもない。
時間が止まったような瞬間。必ず1秒ほどのディレイが発生するのだ。
そしてそのディレイが終わってから、彼は話し始める。


僕がさらに言葉を返す。
彼はまたキッチリ1秒だけ硬直する。
そのディレイが終わると、また話し始める。

たとえ何度会話のやり取りした、この「きっちりとした1秒ほどのディレイ」が、必ず繰り返される。このフォームが崩れることはない。
なんだか遠くの場所と中継してるような感じだ。


人間は、話の内容の違いによって、すぐに答えられたり、逆に考え込んだりするのが自然だと思うのだけれど。
彼にはそういうことがない。「必ずキッチリ1秒ほど硬直する」。


理由は分かっていない。
この1秒間に、彼の頭では何が起こっているのか。

謎だ。


ただの癖なのか。
本人も無意識なのかどうなのか。
スピードが遅いように見て、実は一瞬のうちに、ものすごい量の計算がおこなわれているのか。



ちなみにこの3人の中で1人は、損得勘定で動くタイプで、相手に損をさせて、自分の得になることばかりしていた。
だから残りの2人も、そうなんじゃないかという偏見の目で見てしまう。


本当のところ、どうなんだろう。
そして「人間ディレイさん」に気付いている人は、僕以外にいるのだろうか。



2017年2月15日水曜日

アイスコーヒーが美味い理由 | 僕らは脳で飲食する

僕らは食べ物や飲み物を、脳で味わう。

「冷めたコーヒー」が美味いのは、この世に「アイスコーヒー」という言葉があるからだ。
もしこの言葉が存在しなければ、「アイスコーヒー」はただの「ホットコーヒーが冷めたもの」になってしまい、不味く感じる。

たとえば有名な言い回しで「冷めたピザ」は不味いと言われるが「冷製ピザ」なんてという名前を空想しながら食べてみると、案外いけたりする。(僕は嫌いじゃない)

僕らは「言葉で理解できるもの」「想像できるもの」を食べる傾向にある。
逆に「言葉で理解できないもの」は避けたり、不味いと感じたりする。

なので、お祭りではたこやきの屋台に行列が並ぶが、目新しい屋台は閑散としている。
子供の頃からマクドナルドで育った人は、大人になってもマクドナルドに自然と引き寄せられる。
駅近にいかに美味いインドカレー料理屋があっても、通い詰めるのはハズレのないラーメン屋だ。

これを狩猟民族的に考えると、毒を避け、安全が確保されたものだけを食べよう、という本能なのかもしれない。

2017年2月13日月曜日

人の話を聞く重要さ | 鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

世の中には、敏感なタイプの人間と、鈍感なタイプの人間がいる。
敏感な人間と鈍感な人間で、世界は成り立っている。
だからお互いが手を取り合うときには、素晴らしいパートナーシップが築けるはずだ。

だけど、お互いの距離は、けっこう長かったりする。(あえて「溝が深い」とは書かないでおく)

「男性は火星から、女性は金星からやってきた」と、ある心理学者は言った。
同じように「敏感な人間」と「鈍感な人間」の間にも、異星ほどの距離があるように思うことがある。

ちなみにここでいう「敏感」「鈍感」というのは、決して良し悪しのことではない。
良い部分と悪い部分の両方をあわせもつ、性質のひとつのことだ。


ところで僕は敏感なタイプの人間だ。
だからこそ、このようなブログを書いている。
そして敏感なタイプである僕にとって「相手が話を聞いてくれるかどうか」というのは、とても重要な問題だ。


プライベートではよく、人が「ちゃんと話を聞いてくれているか」がとても気になる。
「あ、この人はちゃんと話を聞いていないな」とか、
「聞いているふりをしているけど、まったく伝わっていないな」とかいうことが、敏感によく分かってしまう。
(あるいは、よく分かったつもりになっている)

自分が話しても、相手はちゃんと聞いてくれなかった。
伝える努力をしても、理解する努力をしてもらえなかった。
話を途中でさえぎられることが、100回も繰り返された。

こんな経験を繰り返すたびに、
「自分が話しても、どうせ人には伝わらないだろうな」と思って、話すことさえ諦めてしまう。

話さないから、伝わらない。
伝わらないから、話さない。
これは悪循環だ。


だけれど、そんな状況だから、
「話をちゃんと聞いてくれる経験」の貴重さはさらに増し、需要は高まってゆく。
これは本当に切実で、まるで喉を乾かしながら、砂漠にいるような気持ちだ。

「人の話をちゃんと聞くこと」の貴重さを、切実に感じる時こそ、逆に、人の話はちゃんと聞こうと心がける。
だけどいつでも「人の話をよく聞こう」と心がけるだけで、「自分の話を聞いてくれる人」には、結局出会えずじまいなのだ。

このように「これもダメ」「あれもダメ」と考えて、敏感な人間というのは、まったく気難しいものだと思う。
それにたぶん僕自身も、自分が思うより10分の1も、人の話を聞いてはいないだろう。


だけど、それでも「話を聞かない人」といると、辛い。
「話を聞かない人」は、あまり人に質問をしない。
なぜなら、興味の中心は自分自身だからだ。
仮に質問をしたとしても、自分の話をするための「踏み台」だったりする。
よく観察すると、すべての話が「自分の話」に集約されていることが分かる。

だから、こちらの話をよく噛み砕いて、理解しようと努めたりしてくれない。
咀嚼せずにすぐに飲み込んでしまう。
飲み込んだと思いきや、口の端から漏れている。



話を聞かない人は、
「すぐには理解できないもの」
「ちょっと立ち止まって、想像しなければ分からないこと」
が世界にあるなんて、思いもよらない。

だから僕が何か話をしていても、脊髄反射で言葉を返して、言葉を大事に扱うなんてことはしないのだ。


「うん」「そうだね」「本当だね」「その気持ち、分かる」
「それって、どういうこと?」「ちょっと考えてみるね」

こんな当たり前の言葉が、僕は欲しい。

「はいはい」「つまりさ」「ところでさ」
「それはともかく」「気にするなよ」「俺の場合は」

こんな言葉は、僕は欲しくない。



ところで周りを見渡すと、人はあまり「話を聞くこと」や「話を聞いてくれること」なんか、そもそも気にしていないように思える。
僕は「人の話を聞くことは重要だ」と思うけれど、他の人は違う考えを持っているのかもしれない。


これは単に、ディスコミュニケーションに気付いていないだけなのか。
それとも、気付いてはいるが、気にしていないだけなのか。
それとも、実は人のコミュ力が遥かに高くて、僕がついていけていないだけなのか。
それは分からない。


まず僕が、人の話をよく聞いて、だから相手も、僕の話をよく聞いてくれる。
そんな関係が、僕にとっては理想なのだ。


自分の話が大好きな人 | 人間ブラックホールさん

自分の話が大好きな人。

なんでも自分の話にしてしまう。
まるでブラックホールだ。

Aさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。
Bさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。
Cさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。

良心のある人は、はじめは抵抗をみせて、他のいろいろな人に話を振る。
だけどそのたび、やっぱり全てが吸い込まれてしまう。
そして最後には、抵抗する気力もなくなって、ブラックホールさんのなすがままの世界がやってくる。

もしブラックホールがおじさんなら、
口癖は「私の若い頃はねえ」かもしれない。
もしブラックホールが若い男なら、
口癖は「俺の場合はさぁ」かもしれない。

ブラックホールさんは絶対に、人の話を聞かない。
というより、そもそも聞き方が分からない。
コミュニケーションのとり方が「自分の話」の1種類しかないのだ。
メニューをひとつしか出さない、がんこ屋の食事処みたいだ。

だからあいづちを打つときも、自分の話がしたくて、口元がそわそわしている。
そして0.01秒の隙さえあれば、必殺技を繰り出すのだ。

「完全吸収・ブラックホールパワー!!!」

彼の話に、最初、皆はうんざりする。
だけどブラックホールさんの話は、よく聞くと、わりと面白かったりする。(ブラックホールの種類にもよる)
ブラックホールさんは、自分の世界を持っている

ブラックホールさんが世界の99%を支配して、数千年が経った頃。
僕らはブラックホールさんの支配下に置かれ、彼の世界を楽しむしか、生きる術がなくなる。


良心を保ちながら、ブラックホールさんに勝つ手段は、僕らには用意されていない。
僕ら自身がもっと大きなブラックホールになって、彼を吸い込んでしまうぐらいしか残されていない。


2017年2月8日水曜日

「良くなる」と「幸福になる」の違い | 「劇的に良くなる」の嘘

「劇的に良くなる」というのは、嘘だ。

僕たちは今までの人生で「これをこうすれば、劇的に良くなる」という謳い文句や、自分自身で生み出した妄想に踊らされてきたんじゃないだろうか。
「この世の中の、どこかにもっと、素晴らしい手法があるはずだ」という期待を、ぼんやりと抱いている。
「黄金のキーさえ見つければ、人生は好転するはずだ」という思惑を、そこらかしこの小さな領域で見つける。
この考えはあまりに無意識下に浸透しているので、自分たちがそう考えていることにすら気付かないほどだ。

だが、淡い期待よりも、事実を考えることが大事だ。よく振り返って、思い出してみてほしい。
今までの人生の中で「劇的に何かが改善したこと」など、果たしていくつあっただろうか?
「劇的に改善したこと」と「劇的には改善しなかったこと」の、一体どちらが多かっただろうか?
(もし前者が多かったというならば、あなたはきっと頭が良い人だ。こんな記事を読む必要はまったくない)

未来に対する期待ではなく、過去の事実から考えてみよう。
多くの場合、僕たちは驚くほどに、ほんの、わずか少しずつしか良くなっていくことが出来ない。
だが僕たちは、その事実を認めることが、どうしても出来ない。
だって、もし人が「大樹のようにしか成長できない」ならば、一体どうやって、この不幸から抜け出して、幸せになれば良いというのだろう?


だがそれと同時に、僕たちは理解していない。
ひとつ言えるのは「劇的に改善するはずだ」という思い込みこそが、本当に有害だということだ。
この世の摂理として、大きく期待すれば、大きく裏切られるのは当たり前の話だ。
だけど僕たちは、まるで一夜漬けをする学生。もしくは、負け続けのギャンブラーみたいだ。
毎回裏切られるために、毎回、物事に大きな期待を抱く。
そして、僕たちの見積もりは、いつも、だいたい、大きく間違っている。
1のものを10の見積もりし、逆に10のものは1だと見積もっている。


僕たちの本能は「短期間で劇的な成果を得ること」を求めようとする。
「獲物が得られるか、それとも、得られないか」。
狩猟民族の本能が刻みつけられているのだろうか?
それともこれは、日常で延々と脳に刷り込まれるTVCM、車内広告、ウェブ広告のせいなのだろうか?


そして、僕たちは「良くなること」は「幸せになれること」だと勘違いしている。
「劇的に良く」なれば「劇的に幸せに」なれると信じ込んでいる。
だけどこれは、ものすごくはまりやすい罠だ。
1+1=2 だと思うだろう? だけど「良さ」と「幸せ」は必ずしもつながっていない。

僕たちの思考の根底には「良くなれるはず」という信条と「良くなれば幸せになれる」という、二段階の思い込みがある。
そして現代においては「良くなることこそが良いことだ」と定義づけられている。
だからこそ「世界を変える」というメッセージを、スティーブ・ジョブズや、他の先鋭的な人が送り続ける。
だけどついに iPhone を手にした人類も、前より幸福になったとは限らない。


「良くなれば幸せになれる」と考えることは
逆に「良くならなければ、幸せになれない」と考えることだ。
だから僕たちは、急に良くなれない自分に焦りを感じるし、もどかしさを抱く。
だがこの二つを分離して考えてみよう。

人は短期間で劇的に良くなることもないし、たとえ劇的に良くなったからといって、劇的に幸せになれるとは限らない。
「二段階の思い込み」によって、僕たちはいつでも幸せに近づきそこねるし、いつでも期待を裏切られてばかりだ。
「成長による幸福の増加度」を「期待を裏切られる不幸の増加度」が、常に上回っている。
だけど僕らは、自分自身の思い込みを捨てるのが癪なので、幻想を持ち続ける。



人の幸福に関しては、必ずと言って良いほど、逆説の力学が働いている。
(もしそうでないのなら、どうしてこれほど多くの人が幸福を掴み損ねているのだろう?)
そのうちのひとつの法則。
「良くなれば、幸福になれる」という思い込みを捨てることで、僕たちはむしろ幸福に近づく。

世間で言われている「成長」のイメージに、大きな価値を置いてしまうのは危険だ。
たとえ、それは1割の部分では当たっていたとしても、残りの9割は過剰な見積もりだからだ。
僕たちは必ず成長するとは限らない。
ただ、自分の心の扱いを、ちょっとだけうまくすることなら出来る。


マインドフルネス | 未来の不安は、今の不安。(日曜日は月曜日を夢想する)

僕たちは未来について思い悩んでいる時、心は架空の時間に位置する。

未来のことを悩むこと。これをやめるのはなかなか難しい。
なぜなら、思い悩むのをやめて「現在」に集中しようとも、未来は消えたりはしない。
消えないものを考えないようにする。こいつは難易度が高い。
未来はいつでもすぐ先にあって、僕たちを脅かす。

現在にだけ生きることは、未来に「見てみないふり」をすることだ。
見ないふりをしても、現実の未来は消えてはくれない。
だから現在に集中することは、まるで欺瞞のように思えてくる。
未来を思い悩んでいる時は、まるで未来が固定された現実であるかのように思えてくる。
思い悩んだことの多くが取り越し苦労だとしても、僕たちは悩むのをやめられない。

だけど本当は「未来に対する不安」というのは「現在の不安」の一形態なのだ。
「未来を思い浮かべる」という心の働きのせいで、僕たちは、自分たちの存在までも、未来に位置しているかのように感覚しがちだ。
だけどこれは錯覚だ。僕たちは決して「未来に存在している」わけじゃない。存在することなど出来ない。
「未来という架空の現実を思い浮かべながら、まさに今に存在し、思い悩んでいる」のだ。

「未来の悩みは、未来には無い」
「未来の悩みは、今の悩み」
「今の瞬間の、架空の心の悩みだ」

そう理解した時に、未来の悩みにはずっと対処しやすくなる。
なぜなら「未来」は、僕たちが空想で作り上げるものだ。
少なくとも未来の自分がどんな気持ちで過ごすかは、実際に未来が現在に来てみなければ、分からない。

僕たちは同じ未来に対して、解釈の仕方が本当によく変わる。
同じような未来に対しても、強い不安を感じる時、弱い不安を感じる時、不安を感じない時、希望を感じる時がある。
これは未来が変わったのではなく、僕たち自身の理解が変わったからだ。
これは未来実は固定された現実ではなく、次々と移り変わる、現在の状態に過ぎないからだ。


たとえば日曜日の夜に、月曜日の朝という未来が憂鬱に感じられたりする。
だけどその時の敵は「やがて来る月曜日の朝」じゃなくて「思い悩んでいる日曜日の夜」そのものだ。




2017年2月7日火曜日

マインドフルネス | 「適切な備え方」「不適切な備え方」

マインドフルネスの教えでは「常に、今現在に注意を向ける」ことが勧められる。
僕たちはとかく、未来や過去に心を奪われがちだから、これは多くの場面で有効なやり方だ。

だけど字面のとおり、今現在だけに注意を向け続けるのは、ある意味、不安なことでもある。
なぜならたとえば、僕が職場にいない時には、本当に仕事のことを考えなくても良いのだろうか?
決して将来の計画を考えずに、幸せな人生を送れるのだろうか?
今現在だけに注意を向けていないと、とっさの時に、危険に対処できないのではないだろうか?
という疑問が浮かんでくる。
「全く未来を気にしない状態」にも、心は不安を感じるようだ。
(厳密に言うと、それも未来を気にする心の一形態なのだが)

最近思い至ったのは、これは単純な二元論ではないということだ。
書籍「GO WILD」には、この「対処できるように、備える」という心の状態について、奥深いことが述べられている。
「未来について過剰に思い悩まず、なおかつ、適切に備えている」という状態が存在するのだ。

瞑想 の 平穏 な 状態 とは 困難 が ない 状態 では ない。 警戒 心 や エネルギー の 消耗 が ない 状態 でも ない。 むしろ、 脳 は いつ でも 反応 できる よう 注意 し、 警戒 し て いる の だ。 これ は ホルモン 分泌 の 仕組み と まったく 同じ だ。 
「いつ でも 反応 できる よう 注意 し、 警戒 する」 とは まさに 狩猟 採集 民 の 精神状態 だ。 進化 の 導き により、 わたし たち は 注意・警戒 する こと で 報酬 が 得 られる よう に なっ て いる こと が わかっ て き た。 それ も その はず だ。 わたし たち にとって 理想的 な 状態 とは、 騒音 が あふれる 状態 でも 静まりかえっ た 状態 でも なく、 ストレス が ある こと でも リラックス し て いる こと でも なく、 満腹 でも 飢餓 でも なく、 起き て いる こと でも 眠っ て いる こと でも ない。 両極 の 間 で 体 が うまく バランス を 保っ て いる 一点 が、 その 人 にとって 理想的 な 状態 なの だ。
ジョンJ.レイティ; リチャード・マニング. GO WILD 野生の体を取り戻せ! 

なるべく「今現在」に注意を向けながら過ごすとしても、杓子定規に100%そうしなくても良い。
対象が適切であれば、適切な「備え方」をするのが良い場合があるということだ。

そして、時と場合に応じて「適切な備え方」と「不適切な備え方」の種類が生じる。
一律に備えること自体が「良い」「悪い」というものではない。

たとえば朝、会社に向かって歩く時、
その日の仕事の段取りを考える事は「現在に生きていること」ではないが、適切なことだという場合がある。
なぜなら、それによってちゃんと仕事が回せるようになるなら、ちょっとだけ未来について考えるのも、悪いことではない。
たとえば、街を歩きながら、車に気をつけて歩くのも「適切な備え方」だ。なぜなら、車に全く気をつけなければ、轢かれて死んでしまうから。

だけど街を歩きながら「5年後の働き方」についてネガティブな空想をするとしたら、それは「備えすぎ」だ。適切な備え方ではない。
たとえば道で見かけた看板に気を取られて、ありもしない妄想に悩み始めるなら、それも適切な備え方ではない。

心の70%は現在を生きて、残りの30%で「適切な対象」に対して備える、ということも出来るはずだ。

2017年2月5日日曜日

「あなたの夢は何ですか?」に返す言葉(と、返さない言葉)

「あなたの夢はなんですか?」
「人生の目標は何ですか?」

人からこのような質問をされると、僕には、ひとつも返す言葉がない。
返す言葉がないから、そのかわりに疑問を抱く。
「なぜ、人に夢があることを前提で質問するんだろう?」
「なぜ、人生に目標が必要だと思うんだろう?」
といった反発を感じる。

だけど同時に「やっぱり、人生には夢があったほうが良いよな」とも考える。
そして、人に言える「夢や目標」がない自分を、強く恥じることになる。
次に、強い夢や目標を持つ人間の輝かしさを、心から羨ましく思うのだ。
「夢を持っているのは、自分とは違う人間だ」「人間としてのスケールが違う」と思う。そして「そんな価値の高い人間に、自分もなりたい」と思う。


夢と言えば。世の中にはスケールの大きな人間がいる。

キング牧師は「私には夢がある」とスピーチで語った。
マザーテレサは多くの人に慈愛の行為をおこなった。
イチローは自分の目標を立てて、それを忠実に実行した。
ワンピースのルフィは「俺は海賊王になる」と心に誓った。

きっとこのような大きな夢を持って生きるのが、人間にとって、もっとも重要なことなのだ。
大きな夢に従って生きるということが、真に目覚めるということだ。
きっと、最高の人生を送ると共に「周りの人に貢献する」という重要な使命を果たせることだろう。
それほどに「夢のある人生」「目標のある人生」の魅力は強烈で、輝かしいものだ。
(でなけれは、どうして「友情・努力・勝利」を謳う「週刊少年ジャンプ」があれだけ読まれ続けているのだろう?)


だが僕は、いつまでも人に言える夢を持たないままだ。
なのでどうにか、この質問を受けた時の「切り返し」を作っておこうと考えた。

だが「いつまで考えても、答えが出ない質問」というのは「そもそも問題定義自体が間違っている」というのが僕の昨今の考えだ。
そうすると「夢や目標は何ですか」というこの質問も、少なくとも僕に対しては、問題定義自体が間違っているのかもしれないと考えた。

人に「あなたの、夢や、目標」について聞かれた時、
まず、このような質問においては「夢や目標」というものの定義が、非常に狭いのではないか。
何か社会的な貢献をしたり、大きな成功をしたり、仕事上のキャリアアップをしたり、
というものが「夢や目標」と呼ばれる。
だから僕たちの文化において、広く認められているものだけが「夢」や「目標」と公言することが出来る。

夢や目標には条件がある。

- 社会的貢献や、社会的成功と結びついていること
- 社会において公に認められていること
- 社会において理解しやすいものであること(人に伝わりやすいこと)

この条件をすべて満たす「夢や目標」は、僕にはたやすく出てきそうにない。


たとえば男性であれば「年収をいくらにする」と言えば、まあ極めて俗世的ではあるが、社会的承認を得た目標だと認められることだろう。
だが「アルバイトで一生を過ごすこと」というのは、たとえどんなに本人が強く望んでいても、夢だとは認めらない。

たとえば女性であれば「結婚して子どもを生むこと」「幸せな家庭を作ること」は夢だと認められる。当たり前だが、社会的承認も得ているし、社会に貢献することだからだ。
だけれど「生涯を独り身で過ごしたい」というのは、夢や目標としては承認を受けない。

「いつか、自分の店を持つ」
「いじめをなくしたり、貧困をなくすような、社会的貢献をする」
「ハワイに拠点を持ちながら、バリバリ稼いで、世界中を飛び回る」
どれも人に伝わりやすくて、説明に困らない夢ばかりだ。

だが、ちょっと変わった趣向を持つ人は、たやすく人に承認を受ける夢はない。
当人にとっての夢(と言えるもの)を語ったところで、周りに理解を得られる確率は低い。

たとえば僕が「瞑想を通して、心の平穏にいつでもアクセスできるようにしたい」と語ったとしよう。
だがきっとそれは「夢や目標」としてはカウントされないんじゃないだろうか。
なぜなら、これは自分個人の課題であって、誰か他の人に貢献するものではないから。
そして、社会的な成功ともまったく結びついていないからだ。
「心の平穏? 勝手に追い求めてください」という話になる。

たとえば僕が「毎日、ごはんを美味しいと感じながら食べることが、僕の夢です」と語ったとしよう。
これも同じように、夢や目標としてはカウントされないだろう。
なぜなら「小さすぎる」からだ。(夢や目標は「大きくなければいけない」という暗黙のルールがあるらしい)
そして「進歩的」ではないからだ。
ご飯を美味しく食べることは、夢や目標とは言わない。


ところで。

キング牧師やマザーテレサは、自分の夢を語ったり、理想を実行したりはしたけれども、周りに対して「あなたには、夢や目標がありますか?」とは聞かなかった。
(いや、本当は聞いたかもしれないが、少なくとも、彼ら・彼女らが評価されるのは周りに夢や目標を聞いたからではない)


「夢はありますか?」
「目標はなんですか?」

と聞くかわりに、こうたずねるのはどうだろう。

「あなたにとっての、一番幸せな生活とはなんですか?」
「どんな世界なら過ごしやすいと思いますか?」

と。

僕はもしこう聞かれたら、
「職業・能力・年収・結婚・年齢・性別・夢の有無などの違いによって、価値の序列付けがおこなわず、すべての人がより洗脳を解かれた世界」だと、ちょっと危ない回答を返すことだろう。


僕には夢がない。

人に言える夢は。





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だが、当初の目的を果たすために、世間向けに少しでも分りやすい「僕の夢」のフレーズを書き留めておこう。

僕が理想とするのは。。

- 夢によって洗脳されない世界
- 夢の大小で評価を変えない世界
- 夢を持たないことを認める世界
- 目標を持たなくても自尊心を保てる世界

「最後に後悔しないのが良い人生」の嘘

僕たちは、人生を良いものにしたいと考えている。
「悪い人生を送りたい」と考えている人は、ひとりもいない。

だが「良い人生」とは一体なんなのだろうか?

僕たちは「良い人生」を道で見かけることはない。
その影や形を見ることはない。
「いま、良い人生が訪れた」と感じることも、まあ、ほとんどない。
まるで「良い人生」は、架空のどこかの場所に存在するかのようだ。
そもそも、まったくのフィクションなのではないだろうか。

仮に、自分にとって「良い人生」を、一瞬だけ想像できたとしよう。
「こんな生き方が出来たなら、きっと最高だ」という思いが、脳裏をよぎる瞬間があったとしよう。
だがそんな情動は、おそらく瞬く前に終わってしまう。
きっと残りの多くの時間は、雑事や悩みに気を取られたり、他の人間を羨んだりして過ごすことだろう。
そして、時間というものはあまりにも早く流れてゆく。
挽回のチャンスは刻々と失われていき、あなたが「人生を良くするための時間」は、しまいには取れずじまいだ。


人生というものは、時間に依存している。
たとえば、人生の90%が過ぎた頃に「人生を良いものにしたい」と考えても、既に圧倒的な敗北が決まっている。
なぜなら、もし仮に今までの90%が悪いものだったとすれば、残りの10%を良いものであったとしても、人生全体を考えれば敗北ではないか。
残りの10%を良くすることに、一体、何の意味があるだろう。
むしろ、仮に90%が悪いものであったなら、残りの10%も悪いものになる可能性の方がはるかに高い。
僕たちが人生に勝つということは、これほどまでに難しい。


ここで、人生に対して、もうひとつの理解を生み出すことが出来る。
それは「人生の最後に笑って死にたい」というものだ。
人生の中間地点は、言ってみれば、どうでも良い。評価の基準にはならない。
最後の瞬間を心から満足して、後悔なく死ねたなら、それは、きっと良い人生のはずだ。
「死ぬ時に、後悔のない人生」を目指すこと。
「人間にとって最も大事なこと」は、死を考えるからこそ見えてくる。
死を基準に、生を理解する。
これこそが人生の本質であり、究極の人生論だ。

これに気付いた人間は「最後の瞬間」について、ことあるごとに考えるようになる。
もちろん最後の瞬間には、ひとりきりで死にたくはない。家族や友達に囲まれて死にたいと思う。
「やり残したことはひとつもない」「後悔はひとつもない」「完全に満足だ」「全てのことをやりきった」と思いながら死にたい。


だがこの理解にも大きな欠点がある。
そもそも一体どうして「人生の最後」によって、人生の価値が決まるのだろう?
なぜ「途中の地点」は評価の対象にならないのだろうか?
たとえば今日、心から満足して1日を終えても、人生の最後に笑えなかったならば、それは「悪い人生」と評価されるのだろうか?

そして現実問題として「人生の最後に満足しよう」という目標は、功を奏すのだろうか?
今までと同じ、平凡な生き方をしていては「良い人生」を終えられないのではないだろうか?
何も特別なことが起こらない今日は「人生の最後の満足」に寄与するのだろうか?
むしろ遠ざかっているような気がするけれど?


このように「人生の最後」を基準に人生を考えたとしても、それは個人の幸福につながるとは限らない。
「人生の最後」という価値観にとらわれて「今日の日」や「今の瞬間」をないがしろにするとすれば、それはきっと不幸なことだ。

僕たちはそもそも「人生」という価値観に染まりすぎじゃないだろうか。
ひとつの話に、たとえば老人ホームに入った人が後悔するのは「やったことよりも、やらなかったこと」だとか「仕事ばかりで、家族と過ごさなかったことだ」と言われたりする。

こんな話を聞くと、僕は「人生の本質」を教えられたような感じがする。
「今やりたいことをやらないと、最後には後悔するんじゃないだろうか」
「家族や友達を大事にしないと、最後に後悔しそうだ」
と考えて「人生の本質」なるものを、大事にしようと心に誓う。

だけどそもそもの話として、人生の最後に人間が後悔するのも、「良い人生」という概念に、僕らが毒されているせいではないか?
そもそも「人生」という概念自体、僕たちの空想から生まれたフィクションだ。
フィクションを基準にして考えれば、価値の本質は、そのフィクションの体系に依存する。


そして、人の死はいつ訪れるかは分からない。
すべての人が家族に看取られながら、平均寿命ほどまで生きられるとは限らない
もし明日、事故や何かの偶然で死んだなら、きっとあなたは満足など出来ないはずだ。
なぜなら、今日だって自分に満足できていないのだから。
だが、それは果たして「悪い人生」なのだろうか?



僕のススメは「良い人生」というもの自体が、僕らの空想であり、フィクションであると理解することだ。
人には、良い人生も、悪い人生もない。
そもそも「人生」という概念自体が空想であり、僕たちはただ存在するだけだ。

「人生という空想」に取り憑かれるのは不幸だ。
この洗脳を捨ててしまった方が、より幸福度が高く、不幸度の低い過ごし方が出来るだろう。
特に「人生」なんていう、あまり人が気にしないものを、真面目に考えてしまうような人にとっては。


(だけどもし「人生」というフィクションが気に入っているなら、別に無理をして捨てる必要はない。それがあなたにとって、幸福度の高い理解なのかもしれない)

あなたとスティーブ・ジョブズの価値の違い [価値付けの種類を考える]




A. [社会的な価値付け]

あなたの価値よりも、スティーブ・ジョブズの価値の方が、はるかに高いと考える。

あなたの価値: 1
スティーブ・ジョブズの価値: 100


B. [ヒューマニズムによる価値付け]

あなたの価値も、スティーブ・ジョブズの価値も、全く同じだと考える。
だが、まだ「価値」というメーターは存在する。

あなたの価値: 100
スティーブ・ジョブズの価値: 100


C. [ニヒリズムによる価値付け]

あなたにも、スティーブ・ジョブズにも、まったく価値はないと考える。
だが、まだ「価値」というメーターは存在する。

あなたの価値: 0
スティーブ・ジョブズの価値: 0


D. [価値付けからの逃亡]

あなたにも、スティーブ・ジョブズにも、そもそも価値付けをしない。
価値というメーター自体を手離してしまう。

あなた
スティーブ・ジョブズ


E. [ゲームとしての価値付]

Dと同じく、個人の存在においては、価値付をしない。
社会的価値付があることは受け入れるが、これがいわばゲームにおける、仮のメーターであると理解する。

 - 個人の存在において

あなた


スティーブ・ジョブズ

 - 社会(ゲーム)において

あなたの価値: 1(仮)
スティーブ・ジョブズの価値: 100(仮)

僕は音楽が好きだ。というのは嘘だ。 (本当に好きなものは何?)

人の好みは変わる。なぜだろう。

たとえば、僕は音楽が好きだ。これは子供の頃から続いている。だから日頃から音楽を聴き続ける。
僕は最近、歴史を好きになった。そして、歴史をもっと好きになりたいと考えている。
僕は次に、科学を好きになりたい。なので、本屋でやさしい科学の本を探してみる。

「これが好きだ」と言えるものが、1ジャンルでもあれば良い。人生には。
それを自分の軸にする。「好きなもの」を深く掘り下げれば掘り下げるほど、きっと感動は深くなり、目に見えるものは多くなり、人生は少しずつ幸福に近づいてゆくはずだ。


僕には音楽を聴いて、素晴らしい気持ちになれる日がある。
そんな日は「僕は音楽が好きだ」と、改めて気付かされる。
「音楽好き」としての確信を深め、アイデンティティを再確認する。
1日中音楽を聴いて過ごしたいとも考えるし、もっと素晴らしい気持ちになるために、もっと良いオーディオ機器が欲しくなる。
「僕は音楽を聴くために生まれてきたんだ」と考える。
なぜなら音楽が僕を、感動的な気持ちにしてくれるからだ。
もっと音楽と触れ合おう。音楽とともに生きてゆこう、と心に決める。

だけど、その次の日には、まったく同じ音楽を聴いても、同じようには感動できない。
「何かがおかしい」
「何が悪いのだろう。音楽じゃなくて、自分が悪いのかもしれない」
「音楽は、自分の人生に不可欠なもののはずだ」(なぜなら昨日、自分でそう決めたから)
「だからきっと、また同じように、音楽で感動できる瞬間がやってくるはずだ」
「いちど感動できたならば、また同じように感動できるはずだ」
というようなことを考える。

だけど「同じような感動」は、待っても、暮らしても。
いつまでもやって来ずに、僕は音楽からだんだんと愛想を尽かす。
「音楽は僕が考えたような奴じゃなかった」「もっと僕を感動させ続けてくれると思ったのに」「話が違うじゃないか!」と思う。


そして僕は次に「心を感動させてくれるもの」を探す。
街を歩いていると、本屋に平積みされていた「人類の歴史の本」がたまたま目に留まる。

「これは、もしかしたら、僕が本当に探していたものかもしれない」。
そして家に帰ると、Kindleで同じ本をダウンロードする。
幸運にも、その歴史の本は、大当たりだった。
そいつは僕を感動させてくれて、僕は今度は「歴史好きに変わろう」と心に決めることにした。

そう、僕に今まで足りなかったのは、歴史への理解だったのだ。まるで世界が開かれたような感じだ。
「いや、だからといって音楽を捨てる必要はない」
「歴史書を読みながら好きな音楽を聴いたら、人生はもっと素晴らしくなるんじゃないか?」と考えたりする。
「よし歴史の次は、科学だ」「より世界を理解すれば、より素晴らしい休日と、平日がやってくるはずだ」と考える。
こうして僕は音楽好きから、歴史好きになり、そして次には科学好きにもなろうとしている。


このように、世間でジャンル分けされているものに対して「好き」だと表明するのは、とても分りやすい。とても手軽だ。
「僕は音楽が好き」「僕は歴史が好き」「僕は科学が好き」と決めていれば、世間にも説明がしやすい。

事実、音楽は僕という個人にとって、他のジャンルよりも「感動を与えてくれやすい」ということは分かっている。
今までの人生において実証されているのだ。
だけど感動のレベルは日々違うし、多くの場合は「ただ耳に流れているようなもの」として、音は堕落している。
だけど「僕は音楽が好きだ」と決め続けている。ここに深刻な落差が生じる。
「音楽好きな人間」が「音楽で感動できない」のは、何が悪いのだろう。
音楽は悪くない。きっと受け手の側に責任があるはずだ。
そうに決まっているし、そうでないと理屈が合わない。


だけど唐突だが、僕が本当に好きなのは「心が開かれた感じ」なのだと気付いた。
音楽そのものでも、歴史そのものでもないのだ。

「心が開いている感じ」が好きだ。
「心が閉じている感じ」が嫌いだ。

これは「心の感じ」という無形なものであり、簡単には説明できないし、自分自身でも把握が難しい。
別の言葉で表現するならば「世界にアクセスしている感じ」「自分ではないものに思いを馳せている感じ」だろうか。

たとえば、部屋から窓から、ゆっくりと流れてゆく雲を見ると「心が開かれた感じ」になる。
片手に温かいコーヒーでもあれば最高だ。
だけど僕が本当に好きなのは、窓の外を眺めることじゃない。「開かれた感じ」だ。
曇りの日は「開かれた感じ」がしない。夕方が過ぎ、街も暗くなると、今度は逆に「閉じられた感じ」がする。これはとても悲しい。
たとえば、日々の雑事のことで心がいっぱいだと、全くような空模様でも「開かれた感じ」を得ることは出来ない。

改めて書く。僕が好きなのは、本当は音楽でも、歴史でも、科学でもない。
「特定の心の感じ」なのだ。
たとえば音楽というジャンルはは、この「開かれた感じ」を与えてくれやすいという話だ。(本当にありがとう、音楽!)


だが、自分をいったん「音楽好き」と決めてしまうと、そこから錯誤は始まる。
人間が信じる「言葉のラベル」は、いつの間にかすり替えをおこない、個人の行動を変えるようになる。
「より良い音楽を聴くこと」で「より良い気持ちになれるはず」という前提にもとづいて行動するようになる。
「MP3音質の Apple Music より、 CD を WAVE音源で iTunes に入れた方が良いだろうか」なんて考えたりするようになる。
(もちろん音質の低いよりは、高い方が音楽通の好みではあるが)

「自分の好みのジャンル」を決めてしまうことの欠点は、ここにある。
つまり、本当に欲しいものが得られないのにも関わらず、そのラベル基準での行動を続けてしまうことだ。
そして「○○が好きだ」と決めつけは、自分のアイデンティティとなり、今後はアイデンティティへ基準での行動が始まる。
既に僕たちは「本当に好きな感覚」からは、程遠い場所まで来てしまっている。


では僕たちは、どうすれば良いのだろう?
自分を「音楽が好きな人間」だとか「歴史が好きな人間」だとかいうアイデンティティを決めずに、生きてゆくことが出来るのだろうか?
(それで本当に欲しいものが手に入るのだろうか?)


ポイントはいくつかあると思う。
自分が本当に好むのは「無形のもの」だと忘れないでおくこと。
そして、自分自身の傾向を知っておくこと。
そのために役立つものを覚えておくこと。
(僕の場合、最も重要なキーとなるのはおそらく、想像力だろう)

「特定の心の感覚」は、いつでも手に入るとは限らない。
だけど僕は「音楽がそれを与えてくれやすいこと」を知っている。
時には読書が、それを与えてくれるかもしれない。

だけど、僕が欲しものは「心が開かれた感じ」だ。
心が開かれた感じになるのは、想像力が喚起されたときだ。
音楽や本は、この想像力を喚起させてくれるための触媒だ。

「目的」と「鍵」と「触媒」。
たとえばこのように構造を分けて考えると、頭の整理がつきやすいように思う。

世間に散らばっている「ジャンル」は、あくまでも触媒に過ぎない。
僕たちは、まったく触媒がないときよりも、触媒があるときの方が、自分が好むものにアクセスしやすい。
だがそれはあくまでも触媒であって、僕たちが求めるもの本体ではないということを。

そして、自分が好む「特定の心の感覚」は何なのかということを、目を閉じて、ゆっくり考えてみるのが良いだろう。
(実際に、僕がこのことに気付いたのは、瞑想中であった)


2017年2月4日土曜日

自分を宇宙人だと思って街を歩いてみよう

僕たちの文化では、当たり前のように、主語は「僕」「私」「俺」などという一人称だ。

だが心の中で「自分」をどう呼ぶかには、法律があるわけではない。
なので「僕」は、主語を変えてみることにした。
心の中で自分を「自分」と呼ぶのではなくて「この個体」と呼ぶことにしてみた。

たとえばコンビニでチョコレートを買いたくなった時、
「ああ、(僕は)チョコレートが食べたい」と考えるのではなくて、
「生命としてのこの個体は、チョコレートを欲しがっている」と考えてみる。
道を歩いていて、荒々しい車が横切った時には、
「この個体は、プレッシャーを感じたようだ」と考えてみる。

もしくは、自分を「宇宙からやって来て、人間にすり替わっているもの」だと想像してみる。
そして宇宙人として「この個体」の欲求や、経験を、傍観者のように観察してみるのだ。
(実は人知れず、この遊びをやっている人は少なくないんじゃないだろうか)


こうやって主語を変えることによって、まったく世界観が違ってくることに気付く。
想像によって、世界の理解はまったく塗り替えてしまうことが出来る。
いままで「僕」が見ていた世界はなんだったのだろう?
「僕」が当たり前のように信じていた「世界」と「僕」とは何だったのだろう?
ひとつだけ言えることは「自分」という執着から離れた世界のほうが、とても清々しく、過ごしやすく思えることだ。


こんなことを書くと、かなり危ない人だと思われるかもしれないが、まさにそのとおりかもしれない。
だが、心の中で考えているだけなら、周りから変な目で見られたりすることもない。
(と、この個体は、社会的な評判を気にかけている)



ちなみに「自分を宇宙人だと想像すること」は、現実ではない。完全な空想だ。
なので「本当は、宇宙人じゃないでしょ?」と誰かに言われたら、脆くもその幻想は崩れ去ってしまうかもしれない。
いや、誰にも言われなくても、自分で勝手に空想から覚める確率のほうがはるかに高いだろう。

「イマジネーション」が生まれた瞬間は世界が変わったように思えても、イマジネーションを続けることは難しい。
なぜなら僕たち(ならびに、僕たちであるところの各個体)は、社会的な洗脳の中に生きているからだ。

だがここでひとつ重要なことは、
「現実」と「空想」がそれぞれ別個に存在するのではないということだ。
なぜなら「現実」も実は「空想」のバリエーションのひとつに過ぎないからだ。

より多くの人が信じている空想が、現実と呼ばれる。
なので「夢から現実に覚める」というのは「ひとつの空想を捨てて、もうひとつの空想を選ぶ」ということに違いない。
我々は常日頃の中から、空想を約束事として生きているのだ。



会社という空想があるから、我々は毎日(たぶん同じ道を通って)出勤する。
だが我々には「平日と休日」という空想もあり、週に2回ほどは、会社に行かない日を過ごす。
貨幣という空想があるから、コンビニでチョコレートを買うことが出来る。
結婚という空想に約束した人は、ひとりの相手と生涯を過ごすこととなる。
離婚という空想に約束した人は、それからはなぜか、その相手と離れて過ごすことになる。

街を歩くと「セブンイレブン」や「ローソン」といった空想が看板を出している。
そのコンビニで働く人は「セブンイレブンの店員」や「ローソンの店員」という空想を共有している。
なのでいきなり「ENEOS」に行って働きだしたりはしない。


こう考えると、我々が「人間の体に乗り移った、宇宙人ではない」ということは、それもまた、ひとつ空想であることに気付く。


たとえば僕(ならびに、この個体)は、会社が空想だと知りながら、来週からも会社に向かうことだろう。
貨幣が空想だと知りながらも、ちゃんとお金を出してチョコレートを買い続けることだろう。
(「貨幣は空想だ!」と叫んで、レジを素通りするようなことはしない)

なぜなら「会社」や「貨幣」などの空想に添って生きるほうが、この個体や、他の個体にとって、幸福な過ごし方が出来る可能性が高いからだ。
「現実が空想である」ということと「それを選ぶ・選ばない」ということは、全く別個の問題だ。
たとえば会社が空想だと気付いても、来週から会社に行かないということは、この個体にとって恐らく不幸なことである。

だが僕が「これら空想に同意して生きる」と共に、「あくまで空想」であることを理解することで、個体としてより「内心の幸福」を担保することが出来ると、僕は考えている。
なぜなら、社会的な空想の共有(ならびに広い意味での洗脳)は、人間全体には寄与しても、必ずしも個体に寄与するとは限らないからだ。



2017年2月3日金曜日

ディスコミュニケーションという和製英語

「人に全く質問をしない人」と、
「(ある種の)人に質問をしすぎる人」の共通点はなんだろう。

どちらと話していても、僕は窮屈さを感じる。
これはバランスの問題ではない。「ほどほどが一番だ」という問題ではないように思う。

僕が感じるのは「自分主体」と「相手主体」という違いだ。

「人に全く質問をしない人」は、相手に関心がない。
だから自分の話ばかりをしたり、押し黙っていたりする。
ある種の「人に質問をしすぎる人」は、相手に関心がない。
「自分の話のスタイル」でコミュニケーション(という名の演説)を進めたいがために、そこに誘導するかのように質問をする。
その証拠に、僕がその質問に答えても、彼の目は泳いでいるし、特に内容を噛み砕いているようには見えない。

話し方のスタイルの違いはともかく、コミュニケーションのあちこちに「自分主体」は隠れている。
これを見つけるたびに、僕は人の会話がすれ違い、理解し合えない悲しさを感じてしまう。
なぜ悲しいかというと、自分も人に話をよく聞いてもらいたいし、理解してもらいたいけれど、そうしてくれる相手は簡単には見つからないと思ってしまうからだ。


自分主体のコミュニケーションの特徴は、たとえば以下の通り。

- 人の話を遮って自分の話を始める。
- 人の話を憶測で理解する。(自分が話を理解していると思いこんでいるから、理解するために考えたり、ちょっと時間をとって想像したり、分からないことを質問したりはしない)
- 自分が興味のない分野の話には全く反応せず、興味のある分野の話に強く反応する。(なぜなら、興味があるのは「話題」であって、いま話している「相手」ではない)


だがそういう僕自身が「相手主体」で話しているかというと、それも違う。
僕は現在「人の話をよく聞くのは良いことだ」「聞き役に回る人のほうが偉い」という価値観を持っているから、逆にそうしない人を見ると腹が立つし、自分が聞き役に回っているのを「価値が高い」と思い込んでいる。
これも「自分主体」のひとつの形態だ。
(話題から気がそれて上の空になっていることも多いし、ちゃんとコミュニケーションに集中できていない)

では、その反対にある「相手主体のコミュニケーション」とはなんだろうか。
それは単に「相手の話をよく聞く」ということだけにはとどまらないように思う。

基本的には相手の話をよく聞いて、噛み砕いて。
分からないことがあれば質問をして。
コミュニケーションが取りにくい相手がいれば、話題を差し出して。
場に話の輪から外れている人がいれば、話の輪に入れてあげて。
場が盛り下がっていれば、温めるような冗談を言って。
いわばサービス精神こそが「相手主体」のコミュニケーションの本質と言えないだろうか。

こう考えると「相手主体」のコミュニケーションはものすごく大変そうに思える。
だがここまで書いておいて、ひとつ思うことは「相手主体」と「自分主体」とは共存できるはずだという実感だ。言葉的には矛盾するが。

---

[パターンA] 他者犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 0

[パターンB] 自己犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 0
- 相手を楽しませるレベル: 10

[パターンC]

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 10

---

このパターンの中であれば、間違いなく[パターンC]を選択したほうが良さそうだということが分かるだろう。



ところで、この話に結論はない。


2017年2月2日木曜日

評価がないと人間は進歩しない?

評価最小化の戦略。
あらゆる物事に関して、価値の判断を減らしたほうが、個人は幸福な状態に近づく可能性が高いと、私は考える。

だが、ここで重要な問題が生じる。
もし評価するということをまったくやめてしまえば、人間はどうやって進歩すれば良いのだろう?
進歩をやめたら、どうやって人間は良くなれば良いのだろう?

評価を減らすことは本当に良いことなのだろうか?
過ぎたるは及ばざるがごとしで「ほどほどに評価する」ことが良いのだろうか?
「自己評価から解き放たれた人」の方が、結果的に「より成長」できて、「人からの評価も高くなる」から良いのだろうか?

たとえば仕事上の評価を全く気にしない人は、仕事人として成長できるのだろうか?
たとえば家族の評価をまったく気にしない人は、家族を大事に扱えるのだろうか?
たとえば異性の評価をまったく気にしない人は、魅力的な人になれるのだろうか?

たとえば、罪人への評価をやめれば、どうやって彼を裁けば良いのだろう?
たとえば、偉人への評価をやめれば、どうやって彼に学べば良いのだろう?

だからやっぱり「評価は必要だ」。
「評価こそが人間を成長させるんだ」と思うかもしれない。

だがしかし、そのまさに評価こそが、人間を不幸に陥れる最大のファクターなのだ。
ここにパラドックスがある。
評価は劇薬だ。人間の「進歩」には役立つとしても「幸福」に役立つとは限らない。
けれど、我々は「進歩」の果てに「幸福」が存在すると、かたくなに信じている。
もはや「幸福」を捨ててまでも「進歩」しようとしている。


ここにひとつ、別の選択肢がある。
それは、仮に「評価する行為」がゲームだとするならば、
「ゲームだと気づきながら、このゲームで遊ぶ」ということだ。
ゲームを遊ぶ動機は、決してゲームが上手くなってハイスコアを獲ることではない。ゲームを遊びながら、ゲームを楽しむことだ。
(もちろん、ハイスコアを獲ることが楽しくてしょうがないなら、そうすれば良いだろうが)


我々は「評価する」という行為からは完全に自由にはなれない。
仮にたとえ、自分ひとりだけが完全な自由を手にしたとしても、他の人はそうとは限らない。

たとえば家庭を作ることは「良いこと」でも「悪いこと」でもないけれど、あなたの幸福に影響を与えることだろう。
そして家庭を作るには、だいたいの場合、まずは異性からの「評価」が必要だ。
これは「自分が世間の評価から自由である」ことは直接の役には立たない。
ここに「他の人の評価との調整」というベクトルが生じる。

つまり、評価するという行為が、空想上のものであると知りながら、自分の、そして周りの人の幸福に寄与するために、いわば戦略的な行動を取るということだ。

評価をまったく捨ててしまうのは上策ではない。評価と遊ぼう。これはどうせゲームだ。



評価というゲーム | 美味いチョコレートと良いチョコレートの話

「このチョコレートは美味い」
「これは良いチョコレートだ」

この二つの微妙な、けれど明らかな違いに、あなたは気付くことが出来るだろうか。

両者の違いは「性質」と「価値」である。
そしてこの二つは、あまりにも、たやすくすり替わることが出来る。
そして、このすり替わりは、我々の意識に膨大に起こっているものだ。


「チョコレートが美味い」というのは性質であり、さらに言えば体験の話だ。これは実体を持っている。
「これは良いチョコレートだ」というのは評価の話だ。これには実体がない。
我々は「美味しいチョコレート」ほど「良い」と思っている。
けれど「美味しいチョコレート」は必ずしも「良いチョコレート」ではない。
そして「不味いチョコレート」も必ずしも「悪いチョコレート」ではない。


我々はなにかと「評価」をしたがる。そして「価値の序列」を付けたがる。
「価値体系の創作」は我々が大いにはまっている、共通の趣味だ。
この趣味はあまりにも習慣として根付いているので、我々はたとえどのような物事に対してであっても、瞬間的に評価を加えずにはいられない。
「評価」というデコレーションは、無意識と意識の欠片のひとつずつに、まるでまんべんなくまぶしかけられているようだ。


チョコレートを良いと評価しても、悪いと評価しても、対して我々の生活に影響はないと思うかもしれない。
けれどいったんこの「評価」が人間に、そして自分自身に向けられた時、我々は無限にも思える迷路の中で迷い続けることになる。

たとえば「親切な人」がいる。だけどその人は実は、良い人でも、悪い人でもない。
我々の評価が、その人に価値を与えているだけだ。
たとえば「男らしい男」がいる。だけどその人は実は、良い男でも、悪い男でもない。
我々の評価が、その男に価値を与えているだけだ。
これが強がりだと思うだろうか? もし思うなら、あなたはその時点で、やはり自分や人に「評価を加えている」ことになる。
「評価」は「実体」ではない。我々の空想だ。


だが、評価することをまったくやめられると言っているわけではない。
そもそも、人間が評価を完全にやめることは不可能だ。
だが「評価する」ということがゲームだと理解しながら遊ぶことは出来る。




自尊心という空想

自尊心の低さは、様々な箇所で不幸をもたらすと風のうわさで聞く。
自尊心は個人の幸福のレベルに、大きな影響を与えているという。

しかし、「自尊心」とは何だろう。
「自尊心」は、我々が当たり前のように存在すると考えている、現代の共通語だ。
果たしてあなたの友達同士で「自尊心」という言葉が、よく話題にのぼるかどうかはさておき、この言葉自体が通じない人はまずいない。
つまり「自尊心」は、我々が「存在するもの」として扱っている、空想のうちのひとつだ。


「自尊心」はどこから生まれるものなのだろう。
我々が何もしなくても、どこかから降ってわいたように、いつの間にか存在しているものなのだろうか。
いや違う。空想が存在を始めるのは、常に我々の思考や行為からだ。
「自尊心」が存在を始めるのも、我々が「を評価する」という「行為」を始めたときからである。

「自尊心」という要素が人間に、最初から、実体として備わっているわけではない。
「評価する」という行為があるからこそ、自尊心が存在する。(存在するかのように振る舞い始める。)
つまり「評価する」という行為がなければ、必然的に自尊心も存在しない。
たとえば赤ん坊は「自分を評価する」ことをおこなわないので、自尊心という要素自体がそもそも存在しない。


我々は、ないものを、あると思うように出来ている生き物。
存在しないものを、存在するかのように扱う、抽象化の非常に上手な生き物だ。
なので「自尊心」というものも、あると言われればあるような気がしてくるし、存在すると言われれば存在するかのように思えてくる。


「自尊心」という空想の根源。
それは自分自身に対して「価値の大小を判断」するということだ。
つまり自分自身への「評価」が「自尊心の高低」を作り出している。
これは時には意識的におこなわれ、他多くの場合は、無意識的におこなわれている。

ではこの「自尊心」を高めるというのは、どういうことなのか。
それはひとつゲームをして、それに勝つということだ。
「自分の価値」が「大きいと判断」できれば、あなたの勝ち。
「自分の価値」が「小さいと判断」してしまえば、あなたの負け。
今日は勝っても、明日は負ける可能性がある。
今の瞬間には勝っても、5秒後には負けてしまう可能性がある。
たぶん、負ける可能性のほうがずっと高いだろう。人間の脳の構造から言って。


ひとつのゲームに賭けているのだから、あなたには常に、勝つ可能性と負ける可能性がある。
もし仮に幸福が「自尊心の高さ」に直結しているとすれば、幸福になるには、自尊心を高い状態に保っておく必要がある。
だがそのためには、絶えず「自分自身を評価」して、なおかつ「高く評価」する必要がある。
つまり「評価する」というゲームを無限に繰り返す必要がある。
なぜなら、自尊心の根源とは「自分自身」を「評価すること」に由来するのだから。
この二つを断ち切ることは出来ない。


さて、もし「低い自尊心」が「低い幸福感」に直結しているとすれば、あなたはどうにかしてこの「自尊心」というやつを高めたいと思うかもしれない。
だがもうひとつの方法もある。それは「自分自身を評価する」こと自体を、やめてしまうこと。
つまり、このゲームで遊ぶことをやめてしまうことだ。


あなたは「ゲームで勝たなければいけない」と考えているかもしれない。
これがゲームだとすら気付いていない可能性さえある。
実はこのゲームは、やめることが出来る。

「自分自身を評価する」というゲームから降りれば、必然的に「自尊心」という空想も消える。

それがあなたの幸福のためになるかどうかは、試してみると良い。
このままゲームで遊ぶのが良いかもしれないし、もしかしたら今よりももっと賢くなって、今後は勝ち続けることが出来るかもしれない。

だけど「自己評価」という行為自体が、ゲームだということは覚えておいた方が良いと思う。
なぜなら、ディスプレイに近づきすぎて目を悪くしないように。
ゲームをゲームだと気付かないまま遊び続けるのは、きっと体に悪いから。

2017年2月1日水曜日

「生まれただけで価値がある」の嘘 (と「生まれただけでは価値がない」の嘘)

「生まれただけで価値がある」
「生まれただけでは価値はない」

この両方の考え方が、世の中にはある。
一体、どちらを信じれば良いのだろう?


そもそも価値とはなんだろう。

「価値がある」と考えるのも、
「価値がない」と考えるのも、
実は「価値を判断していること」には変わりがない。
「物事には、価値の有無がある」という共通のベースの上に築かれている。

この信念は固く、多くの場合、我々は価値の有無によって、その高低によって、物事を判断せざるを得ない。
たとえ「全ての物事には価値がある」「価値のないものはひとつも存在しない」と考えたとしても、それは同じゲームの土台の上で、細かなルールだけを変えようとしているようなものだ。
だが今までと等しく、同じゲームで遊んでいることには変わりがない。
つまり、物事の価値を等しく認めているようであって、「物事に価値が存在する」という共通の土台からは自由ではない。


我々は、あらゆることに関して価値を判断せずにはいられない。
だが判断するからこそ価値が生まれ、そして価値の有無が生じる。
とするならば、もし「価値を判断する」という行為自体がなければ「価値がある」と「価値がない」の両方が、いっぺんに消えてしまうはずだ。


たとえば人生論でいうと、
「生まれただけで価値がある」というのは、確かに尊い考え方だと思う。
「生まれただけでは価値がない」「努力するから価値がある」というのも、悪くない考え方だと思う。
だがもうひとつの選択肢は「価値を判断する」ということ自体のロジックを認識することだ。
これが実在しないゲームだと知りながら、ゲームに乗ったり、降りたりすることだ。

価値自体が空想であると想像してみよう。