2016年12月30日金曜日

たまに歩くのが遅くなるのは僕だけですか?

たまに、すごく歩くのが遅くなる。

仕事でエネルギーを使った日とか、帰り道、本当にゆっくりとしか動けなくなる。
大げさではなくて、歩くスピードが1/3ぐらいになる。
たまに、立ち止まってしまいそうになる。

今朝は休日だけれど、起きたてにも関わらず、ほんとうに動きがノロくて、やばかった。
顔を洗って、風呂に入ろうとするだけで、かなりの時間がかかった。
これって、本当に具体的な原因が分からない。
別に気持ちが落ち込んでいるわけじゃない。
心はむしろ平穏で、エネルギーがある。

色々と考えてみる。
「前に風邪をひいたから、筋力が低下したんだろうか?」
「足首にシビレが来ているんだろうか?」
「履いている靴が悪いんだろうか?」
「昼食を抜くのがいけないんだろうか」
「単に予定がないからとか、気持ちや目的意識のせいだろうか」
だけど考えてみても、結論は出ない。

ネットで「動き 遅い 体」とか調べても、ほとんど何もヒットしない。
だけどコーヒーを飲んだり、野菜を食べたり、ゆっくりと過ごしていたら、午後にはいつの間にか動きのスピードは元に戻っていた。

これを単に疲れのせいだと言うことも出来るだろうけれど、体が疲れている感覚はない。
体のどこが悪いというよりは、単純に「エネルギー状態」が低下しているといった感じ。
だけどエネルギー状態の低下が、頭痛とか胃痛とかではなくて「動きがノロくなる」という現象として、ここまで顕著にあらわれているとすれば、これは本当に不思議だ。すごく人体の不思議だ。

人のコンデションというのは、本当に個人によって別々の部分に反映されるのは知っている。
それがたまたま僕の場合は「動きがノロくなる」という現象だったのだろうか。
この現象がときおり起こる。やはり傾向としては、休息がとれていなかったり、仕事で頑張りすぎた時に起こりやすいように思う。
そして、たぶんお医者さんに行っても解決しないものだと思っている。
(「疲れのせいですね、休んでください」って済まされるんじゃないだろうか)

いつか科学が人体の不思議を測定してくれて、いま体はどういう状態で、これを治すにはどうすれば良いのか、ということをセンサーか何かで教えてくれれば良いのだろうけど。
医学が進んだとは言っても、症名のつかないような「人体の基礎的な働き」の部分では、膨大な未知の部分があるんだろうなと想像した。


コミュニケーションは人を理解するための手段だ

コミュニケーションというのは本当に奥が深い。
どこにも正解は存在しないような気がするし、実際に存在しないのだと思う。


たとえば二人の人間が話し合うとしたら、僕が理想とするコミュニケーションは、次のとおりだ。

- 普段するような他愛のない雑談ではなくて、もっと人生や、物事の本質を洞察するものであること。
- 会話の中から何らかの哲学を引き出せること。
- これは大げさな言い方かも知れないが、話が終わった後は、お互いに人間として少し成長していること。

コミュニケーションもそういうものであってほしい。


ただの雑談というものは、本当に退屈だ。
最近のドラマや、芸能人の話なんかどうでもいい。
これは恐らく、こういった本質的に退屈なのではなくて、単に僕が興味がないだけだ。
たとえば僕は瞑想に興味があるから、その話であれば楽しむことが出来るだろう。

だから、お互いに興味がある分野の話は、面白い。
きっと会話は盛り上がるはずだ。
興味の対象が同じだということは、素晴らしいことだ。
共通点があるからこそ、会話は素晴らしいものになる。


だが、本当にそうだろうか?


たとえお互いに興味のある分野の話が出来たとしても、それがただの情報交換、意見の交換、熱量の交換に終わるとしたら、一見結意義な話をしているようであって、実際には何もしていないのではないだろうか。
それは、お互いという人間を少しも理解していないからだ。


コミュニケーションが、ただの口を動かす運動だと、無意識に考えている人もいる。
コミュニケーションが、ただ自分が話しまくって、気分を晴らすことだと思っている人もいる。
コミュニケーションは、人の話をよく聞くことだと考えている人もいる。

だがコミュニケーションというのは、お互いという人間を、少しでも理解するための手段だと僕は思う。
会話によって相手を理解し、相手を理解することによって自分も理解する。そして人間として一歩前進するというのが、僕にとって理想のコミュニケーションだ。

そういう意味で、多くの人と同じように、僕はコミュニケーションがすごく下手だ。
こう考えると、僕らの人生は長くても、どれだけ普段人と「コミュニケーション出来ていない」ことだろう。


人生が終わるまでに、あと少しでも、人と分かり合えますように。

体質変化。糖質制限を続けていたら舌が糖質に敏感になった。

糖質制限を始めて1ヶ月以上が経つ。
今日気づいたことは「最近、舌が甘さに敏感になった?」ということだ。

本を読んで、そういう現象が起こり得るということは知っていたが、きっとプラシーボ効果に違いないということだ。
だけどどうやら、自分にも同じことが起きているようだ。

たとえば野菜ジュースを飲むと、ものすごく甘くて、野菜を摂っているというよりも、砂糖を口に放り込んでいる気分になる。
昔、はじめて野菜ジュースを飲んだ時は、甘いラインナップのものでも、野菜の苦味を強く感じていたはずだ。

たとえば、久しぶりに第三種のビールを飲もうとしても、ものすごく甘くて、舌がまったく受け付けない。
ビールの苦味よりも、甘さを5倍ぐらいは強く受け取るようになった。
「なんだこの砂糖水は!」といった感じ。

今までは頭で考えて糖質を制限していた。
だけど今は、頭ではなくて舌が「こんなに甘いものは無理」といって、自然に反応している感じだ。
こう考えると、今までは舌が糖だらけの生活に慣らされていたんだなと思う。

これが本当に肉体的な現象なのか、プラシーボ効果なのかは分からないが、個人主観的には味覚に変化が起きていることは確実だ。

この減少でひとつ良かったことは、ガムシロップ入りのコーヒーとか、たまに楽しみに味わう糖分でも、必要なのごくは少量になったこと。そして、前よりも甘さを楽しめるようになったことだ。
ふだん糖質を控えているからこそ、人より糖質を楽しむことが出来るとは、思いも寄らなかった。

やはり「体は本来、良い食べ物を知っている」のだなと思った。


いや、待て。本当にそうだろうか?
たとえばこんな話を聞いたことがある。
菜食主義を続けている人は、肉を食べるとものすごく気分が悪くなったりするという。
だが糖質制限では、肉をたくさん食べることはむしろ推奨されている。
では、このどちらの現象が正しいのか?

これはおそらく「体は良い食べ物を知っている」という話ではなくて、食習慣が味覚や体質を変えてしまうということの証拠ではないだろうか。

面白い!

2016年12月26日月曜日

5年ぶりの自炊

外食ばかりで食費が驚くほど高い。家賃よりも高い。これはやばい。
ということで、5年ぶりぐらいに自炊をした。

過去の反省をもとに、いくつか方針を決めた。


- 電子レンジ、冷蔵庫は使わない。ジプロックに詰めて、冷蔵庫に入れて、あとで温めて食べる時の味気なさと言ったら。だから、あえて効率を重視しない。食べ切れる量の食材を買って、使い切る。

- カレーは作らない。カレーを作ったときの、洗い物の手強さと言ったら。あれで料理の辛さは3倍に跳ね上がる。あと、毎日のカレーは本当に飽きて辛くなる。

- 作るのが簡単なものしか作らない。選ばない。主に鍋を作る。というか、鍋しか作らない。スーパーでも、包丁で切らなければいけない食材はなるべく買わない。封を切ってそのまま放り込めるようなものを選ぶ。

- 美味しそうに見える環境を整える。具体的には、鉄鍋ではなくて土鍋を買って使うようにした。鉄の鍋だと、どうしても「味気ない感じ」がしてしまう。気分はものすごく大事。お椀も漆器の良いやつを買いたい。


ところで、まな板も危うく置けないような我家のキッチンだ。
そして冷蔵庫、電子レンジは人にあげてしまって、無い。

だがこれを逆手に取って、最小限の環境でも続けられる、シンプルでミニマムな料理をしてみる。

2016年12月23日金曜日

君は「限界的練習」を知っているか?

- 超一流になるのは才能か努力か?
- 究極の鍛錬
- 君もチャンピオンになれる
- アメリカ海軍が実践している「無敵の心」の作り方
- GRIT

最近、人間が能力を最大限に伸ばすための、優れた本が出版されている。
その内容は主に、人間が能力を伸ばすには、漫然とした練習ではなく、発明的な練習、強いレベルの訓練が必要だというものだ。

僕は、まったく、決して、この本に書かれているような「世界レベルの人材」に近いわけではない。
それどころか、おそらくその対極にいる。
社会人が普通に身につけているスキルさえ身についておらず、基礎から作り上げているようなレベルだ。

その自分が「世界最高レベル」云々と書かれている本を読んで、果たして役に立つのだろうか?
仮に、今から最高の人材を目指したとして、人生の時間は足りるのだろうか?
今さらあがいたところで焼け石に水なのではないだろうか?

だが、世の中の物事は0か1ではない。
たとえ本に書かれているような世界レベルの人材に果てしなく遠くとも、今よりも少しでも良い訓練の仕方を身に着け、少しでも成果を得やすくなるならば、もっと人の役に立てるし、人生はもっと楽しいものになるはずだ。

そして、どうせ自己成長をしようと思うなら「世界最高レベル」といった境地から、トップダウンで考えていった方が良いというのは分かる。
たとえば草野球をしている少年でも、YouTubeでメジャーリーグの最高のプレイを観るのは最高の教材になるだろう。

重要なのは、物事と理解だ。
今までの悪が善に変わり、善が悪に変わる。

意識や肉体にプレッシャーがかかると、以前は「ストレスがかかっている」「やりすぎると嫌いになるから、ほどほどにしておこう」と考えていた。
だがこのプレッシャーこそが、自分を成長させてくれる要素なのだと考えれば、「でも、面白い」と理解することが出来る。体内の感覚が変わる。

僕はこの「辛い、でも楽しい」という感覚を、少しずつ育てていきたいと思った。
なぜ少しずつなのか? それはプレッシャーのレベルをいちどに上げすぎて、燃え尽きてしまったことも多々あるからだ。




夢がある人、夢がない人、どっちでもない人

世の中には、趣味がない人がいる。
「何か好きなことがありますか?」と聞いても、ショッピングとか、映画とか、旅行の話ばかり。
それだと話していても、面白くない。退屈だと感じる。

かたや、趣味だらけの人もいる。
毎日が楽しくてキラキラしていて、いつでも新しいことにチャレンジしている。
大きな夢があって、人と接することが大好きだ。
だけどそれは、マルチ商法の人だったりする。

僕には今、大きな夢がないのかもしれない。
だから「夢のある人」から「あなたの夢はなんですか?」と聞かれると、なんとなく居心地が悪くなって、口を濁してしまう。
そして、その帰り道、自分の夢はなんなのだろうと自問自答しながら歩いたりする。
(本当は心がとりつかれるような、大きな目標を見つけたい)

「夢のある人」は、時々まるで「夢がある方が偉くて、ないのは偉くない」みたいなそんな威圧感を受け取る。
夢はあって当たり前。夢がなくては人間未満だ。そんな風に言われているみたいだ。

僕に今、夢があるとすれば、それは内面的な成功だ。
たとえば、毎日仕事を集中して、瞑想をして、心理学の本を読んで、自分自身の心をコントロールできるようになることだ。
だけどそれは「夢のある人」には響かない。
なぜなら「夢のある人」は「社会的に分かりやすい成功」や「人のためになること」が「夢」の定義だと思っているからだ。
ごく個人的な成功は、スケールが小さい。そんなものは夢ではない、と切り捨ててしまっている。
だからどうにも、この話は伝わらない。

逆に「やりたいことがない人」にも、やはりこの話は伝わらない。
なぜなら「自分を改善していく」という価値観の部分で、共感が出来ないからだ。

人間は基本的に「自分と同じぐらいの温度感」の人を好むように出来ていると思う。
やりたいことがない人は、やりたいことがない人といるのが心地良い。
夢がある人は、夢がある人と付き合うのが楽しい。

人間関係には、無限の選択肢があるように見えて、しかし「同じぐらいの温度感」で「同じ方角を見ている」友達を見つけるのは案外難しい。少なくともけっこうな手間と時間はかかるだろう。
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僕たちはごく限定的なステートの中で生きている。

2016年12月19日月曜日

左利きを15年間、訓練して両利きになった話

僕は左手でご飯を食べる。
生まれつきではなくて練習の成果だ。これが15年間は続けている。

元は右利きなのだけれど。
今までの人生の半分は、右手で食事をして過ごした。
ちょうどもう半分は、左手を使って食事をしている。

たとえば部屋の掃除をするときも、左手でクイックルワイパーを持ったり、なるべく左手を使うことを心がけている。
だから今では、右手のほうが少しだけ不器用になってきているぐらいだ。

このことを人に話す機会があると、ちょっとだけ興味を持って理由を聞かれるのだけれど。
その訳は、特に面白くない話で。
僕が学生時代、脳トレが流行っていたからだ。
「左手でごはんを食べると、右脳が活性化する」という話を、川島教授か誰かが言っていて、そしてそれからずっと左手ご飯を続けているのだ。

ただ、この「脳トレ」っていう理由はあんまりウケが良くない。
だから、何か別の理由を考えようかなと考えている。
たとえば「僕は、左右対称が好きなんです」「右手が使えるのに、左手が使えないなんておかしくないですか?」とかとか。
「右手ばかり使って、左手が可哀想だと思って」「左手が僕にせつなそうに話しかけてきて」とか。

利き手を増やすのは、ほんのすこしずつだけ、日常の中で、ひとつの能力が上達しているようで面白い。
そして、よく気づく人に対しては、ちょっとした話の種になる。