2017年2月5日日曜日

僕は音楽が好きだ。というのは嘘だ。 (本当に好きなものは何?)

人の好みは変わる。なぜだろう。

たとえば、僕は音楽が好きだ。これは子供の頃から続いている。だから日頃から音楽を聴き続ける。
僕は最近、歴史を好きになった。そして、歴史をもっと好きになりたいと考えている。
僕は次に、科学を好きになりたい。なので、本屋でやさしい科学の本を探してみる。

「これが好きだ」と言えるものが、1ジャンルでもあれば良い。人生には。
それを自分の軸にする。「好きなもの」を深く掘り下げれば掘り下げるほど、きっと感動は深くなり、目に見えるものは多くなり、人生は少しずつ幸福に近づいてゆくはずだ。


僕には音楽を聴いて、素晴らしい気持ちになれる日がある。
そんな日は「僕は音楽が好きだ」と、改めて気付かされる。
「音楽好き」としての確信を深め、アイデンティティを再確認する。
1日中音楽を聴いて過ごしたいとも考えるし、もっと素晴らしい気持ちになるために、もっと良いオーディオ機器が欲しくなる。
「僕は音楽を聴くために生まれてきたんだ」と考える。
なぜなら音楽が僕を、感動的な気持ちにしてくれるからだ。
もっと音楽と触れ合おう。音楽とともに生きてゆこう、と心に決める。

だけど、その次の日には、まったく同じ音楽を聴いても、同じようには感動できない。
「何かがおかしい」
「何が悪いのだろう。音楽じゃなくて、自分が悪いのかもしれない」
「音楽は、自分の人生に不可欠なもののはずだ」(なぜなら昨日、自分でそう決めたから)
「だからきっと、また同じように、音楽で感動できる瞬間がやってくるはずだ」
「いちど感動できたならば、また同じように感動できるはずだ」
というようなことを考える。

だけど「同じような感動」は、待っても、暮らしても。
いつまでもやって来ずに、僕は音楽からだんだんと愛想を尽かす。
「音楽は僕が考えたような奴じゃなかった」「もっと僕を感動させ続けてくれると思ったのに」「話が違うじゃないか!」と思う。


そして僕は次に「心を感動させてくれるもの」を探す。
街を歩いていると、本屋に平積みされていた「人類の歴史の本」がたまたま目に留まる。

「これは、もしかしたら、僕が本当に探していたものかもしれない」。
そして家に帰ると、Kindleで同じ本をダウンロードする。
幸運にも、その歴史の本は、大当たりだった。
そいつは僕を感動させてくれて、僕は今度は「歴史好きに変わろう」と心に決めることにした。

そう、僕に今まで足りなかったのは、歴史への理解だったのだ。まるで世界が開かれたような感じだ。
「いや、だからといって音楽を捨てる必要はない」
「歴史書を読みながら好きな音楽を聴いたら、人生はもっと素晴らしくなるんじゃないか?」と考えたりする。
「よし歴史の次は、科学だ」「より世界を理解すれば、より素晴らしい休日と、平日がやってくるはずだ」と考える。
こうして僕は音楽好きから、歴史好きになり、そして次には科学好きにもなろうとしている。


このように、世間でジャンル分けされているものに対して「好き」だと表明するのは、とても分りやすい。とても手軽だ。
「僕は音楽が好き」「僕は歴史が好き」「僕は科学が好き」と決めていれば、世間にも説明がしやすい。

事実、音楽は僕という個人にとって、他のジャンルよりも「感動を与えてくれやすい」ということは分かっている。
今までの人生において実証されているのだ。
だけど感動のレベルは日々違うし、多くの場合は「ただ耳に流れているようなもの」として、音は堕落している。
だけど「僕は音楽が好きだ」と決め続けている。ここに深刻な落差が生じる。
「音楽好きな人間」が「音楽で感動できない」のは、何が悪いのだろう。
音楽は悪くない。きっと受け手の側に責任があるはずだ。
そうに決まっているし、そうでないと理屈が合わない。


だけど唐突だが、僕が本当に好きなのは「心が開かれた感じ」なのだと気付いた。
音楽そのものでも、歴史そのものでもないのだ。

「心が開いている感じ」が好きだ。
「心が閉じている感じ」が嫌いだ。

これは「心の感じ」という無形なものであり、簡単には説明できないし、自分自身でも把握が難しい。
別の言葉で表現するならば「世界にアクセスしている感じ」「自分ではないものに思いを馳せている感じ」だろうか。

たとえば、部屋から窓から、ゆっくりと流れてゆく雲を見ると「心が開かれた感じ」になる。
片手に温かいコーヒーでもあれば最高だ。
だけど僕が本当に好きなのは、窓の外を眺めることじゃない。「開かれた感じ」だ。
曇りの日は「開かれた感じ」がしない。夕方が過ぎ、街も暗くなると、今度は逆に「閉じられた感じ」がする。これはとても悲しい。
たとえば、日々の雑事のことで心がいっぱいだと、全くような空模様でも「開かれた感じ」を得ることは出来ない。

改めて書く。僕が好きなのは、本当は音楽でも、歴史でも、科学でもない。
「特定の心の感じ」なのだ。
たとえば音楽というジャンルはは、この「開かれた感じ」を与えてくれやすいという話だ。(本当にありがとう、音楽!)


だが、自分をいったん「音楽好き」と決めてしまうと、そこから錯誤は始まる。
人間が信じる「言葉のラベル」は、いつの間にかすり替えをおこない、個人の行動を変えるようになる。
「より良い音楽を聴くこと」で「より良い気持ちになれるはず」という前提にもとづいて行動するようになる。
「MP3音質の Apple Music より、 CD を WAVE音源で iTunes に入れた方が良いだろうか」なんて考えたりするようになる。
(もちろん音質の低いよりは、高い方が音楽通の好みではあるが)

「自分の好みのジャンル」を決めてしまうことの欠点は、ここにある。
つまり、本当に欲しいものが得られないのにも関わらず、そのラベル基準での行動を続けてしまうことだ。
そして「○○が好きだ」と決めつけは、自分のアイデンティティとなり、今後はアイデンティティへ基準での行動が始まる。
既に僕たちは「本当に好きな感覚」からは、程遠い場所まで来てしまっている。


では僕たちは、どうすれば良いのだろう?
自分を「音楽が好きな人間」だとか「歴史が好きな人間」だとかいうアイデンティティを決めずに、生きてゆくことが出来るのだろうか?
(それで本当に欲しいものが手に入るのだろうか?)


ポイントはいくつかあると思う。
自分が本当に好むのは「無形のもの」だと忘れないでおくこと。
そして、自分自身の傾向を知っておくこと。
そのために役立つものを覚えておくこと。
(僕の場合、最も重要なキーとなるのはおそらく、想像力だろう)

「特定の心の感覚」は、いつでも手に入るとは限らない。
だけど僕は「音楽がそれを与えてくれやすいこと」を知っている。
時には読書が、それを与えてくれるかもしれない。

だけど、僕が欲しものは「心が開かれた感じ」だ。
心が開かれた感じになるのは、想像力が喚起されたときだ。
音楽や本は、この想像力を喚起させてくれるための触媒だ。

「目的」と「鍵」と「触媒」。
たとえばこのように構造を分けて考えると、頭の整理がつきやすいように思う。

世間に散らばっている「ジャンル」は、あくまでも触媒に過ぎない。
僕たちは、まったく触媒がないときよりも、触媒があるときの方が、自分が好むものにアクセスしやすい。
だがそれはあくまでも触媒であって、僕たちが求めるもの本体ではないということを。

そして、自分が好む「特定の心の感覚」は何なのかということを、目を閉じて、ゆっくり考えてみるのが良いだろう。
(実際に、僕がこのことに気付いたのは、瞑想中であった)


2017年2月4日土曜日

自分を宇宙人だと思って街を歩いてみよう

僕たちの文化では、当たり前のように、主語は「僕」「私」「俺」などという一人称だ。

だが心の中で「自分」をどう呼ぶかには、法律があるわけではない。
なので「僕」は、主語を変えてみることにした。
心の中で自分を「自分」と呼ぶのではなくて「この個体」と呼ぶことにしてみた。

たとえばコンビニでチョコレートを買いたくなった時、
「ああ、(僕は)チョコレートが食べたい」と考えるのではなくて、
「生命としてのこの個体は、チョコレートを欲しがっている」と考えてみる。
道を歩いていて、荒々しい車が横切った時には、
「この個体は、プレッシャーを感じたようだ」と考えてみる。

もしくは、自分を「宇宙からやって来て、人間にすり替わっているもの」だと想像してみる。
そして宇宙人として「この個体」の欲求や、経験を、傍観者のように観察してみるのだ。
(実は人知れず、この遊びをやっている人は少なくないんじゃないだろうか)


こうやって主語を変えることによって、まったく世界観が違ってくることに気付く。
想像によって、世界の理解はまったく塗り替えてしまうことが出来る。
いままで「僕」が見ていた世界はなんだったのだろう?
「僕」が当たり前のように信じていた「世界」と「僕」とは何だったのだろう?
ひとつだけ言えることは「自分」という執着から離れた世界のほうが、とても清々しく、過ごしやすく思えることだ。


こんなことを書くと、かなり危ない人だと思われるかもしれないが、まさにそのとおりかもしれない。
だが、心の中で考えているだけなら、周りから変な目で見られたりすることもない。
(と、この個体は、社会的な評判を気にかけている)



ちなみに「自分を宇宙人だと想像すること」は、現実ではない。完全な空想だ。
なので「本当は、宇宙人じゃないでしょ?」と誰かに言われたら、脆くもその幻想は崩れ去ってしまうかもしれない。
いや、誰にも言われなくても、自分で勝手に空想から覚める確率のほうがはるかに高いだろう。

「イマジネーション」が生まれた瞬間は世界が変わったように思えても、イマジネーションを続けることは難しい。
なぜなら僕たち(ならびに、僕たちであるところの各個体)は、社会的な洗脳の中に生きているからだ。

だがここでひとつ重要なことは、
「現実」と「空想」がそれぞれ別個に存在するのではないということだ。
なぜなら「現実」も実は「空想」のバリエーションのひとつに過ぎないからだ。

より多くの人が信じている空想が、現実と呼ばれる。
なので「夢から現実に覚める」というのは「ひとつの空想を捨てて、もうひとつの空想を選ぶ」ということに違いない。
我々は常日頃の中から、空想を約束事として生きているのだ。



会社という空想があるから、我々は毎日(たぶん同じ道を通って)出勤する。
だが我々には「平日と休日」という空想もあり、週に2回ほどは、会社に行かない日を過ごす。
貨幣という空想があるから、コンビニでチョコレートを買うことが出来る。
結婚という空想に約束した人は、ひとりの相手と生涯を過ごすこととなる。
離婚という空想に約束した人は、それからはなぜか、その相手と離れて過ごすことになる。

街を歩くと「セブンイレブン」や「ローソン」といった空想が看板を出している。
そのコンビニで働く人は「セブンイレブンの店員」や「ローソンの店員」という空想を共有している。
なのでいきなり「ENEOS」に行って働きだしたりはしない。


こう考えると、我々が「人間の体に乗り移った、宇宙人ではない」ということは、それもまた、ひとつ空想であることに気付く。


たとえば僕(ならびに、この個体)は、会社が空想だと知りながら、来週からも会社に向かうことだろう。
貨幣が空想だと知りながらも、ちゃんとお金を出してチョコレートを買い続けることだろう。
(「貨幣は空想だ!」と叫んで、レジを素通りするようなことはしない)

なぜなら「会社」や「貨幣」などの空想に添って生きるほうが、この個体や、他の個体にとって、幸福な過ごし方が出来る可能性が高いからだ。
「現実が空想である」ということと「それを選ぶ・選ばない」ということは、全く別個の問題だ。
たとえば会社が空想だと気付いても、来週から会社に行かないということは、この個体にとって恐らく不幸なことである。

だが僕が「これら空想に同意して生きる」と共に、「あくまで空想」であることを理解することで、個体としてより「内心の幸福」を担保することが出来ると、僕は考えている。
なぜなら、社会的な空想の共有(ならびに広い意味での洗脳)は、人間全体には寄与しても、必ずしも個体に寄与するとは限らないからだ。



2017年2月3日金曜日

ディスコミュニケーションという和製英語

「人に全く質問をしない人」と、
「(ある種の)人に質問をしすぎる人」の共通点はなんだろう。

どちらと話していても、僕は窮屈さを感じる。
これはバランスの問題ではない。「ほどほどが一番だ」という問題ではないように思う。

僕が感じるのは「自分主体」と「相手主体」という違いだ。

「人に全く質問をしない人」は、相手に関心がない。
だから自分の話ばかりをしたり、押し黙っていたりする。
ある種の「人に質問をしすぎる人」は、相手に関心がない。
「自分の話のスタイル」でコミュニケーション(という名の演説)を進めたいがために、そこに誘導するかのように質問をする。
その証拠に、僕がその質問に答えても、彼の目は泳いでいるし、特に内容を噛み砕いているようには見えない。

話し方のスタイルの違いはともかく、コミュニケーションのあちこちに「自分主体」は隠れている。
これを見つけるたびに、僕は人の会話がすれ違い、理解し合えない悲しさを感じてしまう。
なぜ悲しいかというと、自分も人に話をよく聞いてもらいたいし、理解してもらいたいけれど、そうしてくれる相手は簡単には見つからないと思ってしまうからだ。


自分主体のコミュニケーションの特徴は、たとえば以下の通り。

- 人の話を遮って自分の話を始める。
- 人の話を憶測で理解する。(自分が話を理解していると思いこんでいるから、理解するために考えたり、ちょっと時間をとって想像したり、分からないことを質問したりはしない)
- 自分が興味のない分野の話には全く反応せず、興味のある分野の話に強く反応する。(なぜなら、興味があるのは「話題」であって、いま話している「相手」ではない)


だがそういう僕自身が「相手主体」で話しているかというと、それも違う。
僕は現在「人の話をよく聞くのは良いことだ」「聞き役に回る人のほうが偉い」という価値観を持っているから、逆にそうしない人を見ると腹が立つし、自分が聞き役に回っているのを「価値が高い」と思い込んでいる。
これも「自分主体」のひとつの形態だ。
(話題から気がそれて上の空になっていることも多いし、ちゃんとコミュニケーションに集中できていない)

では、その反対にある「相手主体のコミュニケーション」とはなんだろうか。
それは単に「相手の話をよく聞く」ということだけにはとどまらないように思う。

基本的には相手の話をよく聞いて、噛み砕いて。
分からないことがあれば質問をして。
コミュニケーションが取りにくい相手がいれば、話題を差し出して。
場に話の輪から外れている人がいれば、話の輪に入れてあげて。
場が盛り下がっていれば、温めるような冗談を言って。
いわばサービス精神こそが「相手主体」のコミュニケーションの本質と言えないだろうか。

こう考えると「相手主体」のコミュニケーションはものすごく大変そうに思える。
だがここまで書いておいて、ひとつ思うことは「相手主体」と「自分主体」とは共存できるはずだという実感だ。言葉的には矛盾するが。

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[パターンA] 他者犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 0

[パターンB] 自己犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 0
- 相手を楽しませるレベル: 10

[パターンC]

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 10

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このパターンの中であれば、間違いなく[パターンC]を選択したほうが良さそうだということが分かるだろう。



ところで、この話に結論はない。


2017年2月2日木曜日

評価がないと人間は進歩しない?

評価最小化の戦略。
あらゆる物事に関して、価値の判断を減らしたほうが、個人は幸福な状態に近づく可能性が高いと、私は考える。

だが、ここで重要な問題が生じる。
もし評価するということをまったくやめてしまえば、人間はどうやって進歩すれば良いのだろう?
進歩をやめたら、どうやって人間は良くなれば良いのだろう?

評価を減らすことは本当に良いことなのだろうか?
過ぎたるは及ばざるがごとしで「ほどほどに評価する」ことが良いのだろうか?
「自己評価から解き放たれた人」の方が、結果的に「より成長」できて、「人からの評価も高くなる」から良いのだろうか?

たとえば仕事上の評価を全く気にしない人は、仕事人として成長できるのだろうか?
たとえば家族の評価をまったく気にしない人は、家族を大事に扱えるのだろうか?
たとえば異性の評価をまったく気にしない人は、魅力的な人になれるのだろうか?

たとえば、罪人への評価をやめれば、どうやって彼を裁けば良いのだろう?
たとえば、偉人への評価をやめれば、どうやって彼に学べば良いのだろう?

だからやっぱり「評価は必要だ」。
「評価こそが人間を成長させるんだ」と思うかもしれない。

だがしかし、そのまさに評価こそが、人間を不幸に陥れる最大のファクターなのだ。
ここにパラドックスがある。
評価は劇薬だ。人間の「進歩」には役立つとしても「幸福」に役立つとは限らない。
けれど、我々は「進歩」の果てに「幸福」が存在すると、かたくなに信じている。
もはや「幸福」を捨ててまでも「進歩」しようとしている。


ここにひとつ、別の選択肢がある。
それは、仮に「評価する行為」がゲームだとするならば、
「ゲームだと気づきながら、このゲームで遊ぶ」ということだ。
ゲームを遊ぶ動機は、決してゲームが上手くなってハイスコアを獲ることではない。ゲームを遊びながら、ゲームを楽しむことだ。
(もちろん、ハイスコアを獲ることが楽しくてしょうがないなら、そうすれば良いだろうが)


我々は「評価する」という行為からは完全に自由にはなれない。
仮にたとえ、自分ひとりだけが完全な自由を手にしたとしても、他の人はそうとは限らない。

たとえば家庭を作ることは「良いこと」でも「悪いこと」でもないけれど、あなたの幸福に影響を与えることだろう。
そして家庭を作るには、だいたいの場合、まずは異性からの「評価」が必要だ。
これは「自分が世間の評価から自由である」ことは直接の役には立たない。
ここに「他の人の評価との調整」というベクトルが生じる。

つまり、評価するという行為が、空想上のものであると知りながら、自分の、そして周りの人の幸福に寄与するために、いわば戦略的な行動を取るということだ。

評価をまったく捨ててしまうのは上策ではない。評価と遊ぼう。これはどうせゲームだ。



評価というゲーム | 美味いチョコレートと良いチョコレートの話

「このチョコレートは美味い」
「これは良いチョコレートだ」

この二つの微妙な、けれど明らかな違いに、あなたは気付くことが出来るだろうか。

両者の違いは「性質」と「価値」である。
そしてこの二つは、あまりにも、たやすくすり替わることが出来る。
そして、このすり替わりは、我々の意識に膨大に起こっているものだ。


「チョコレートが美味い」というのは性質であり、さらに言えば体験の話だ。これは実体を持っている。
「これは良いチョコレートだ」というのは評価の話だ。これには実体がない。
我々は「美味しいチョコレート」ほど「良い」と思っている。
けれど「美味しいチョコレート」は必ずしも「良いチョコレート」ではない。
そして「不味いチョコレート」も必ずしも「悪いチョコレート」ではない。


我々はなにかと「評価」をしたがる。そして「価値の序列」を付けたがる。
「価値体系の創作」は我々が大いにはまっている、共通の趣味だ。
この趣味はあまりにも習慣として根付いているので、我々はたとえどのような物事に対してであっても、瞬間的に評価を加えずにはいられない。
「評価」というデコレーションは、無意識と意識の欠片のひとつずつに、まるでまんべんなくまぶしかけられているようだ。


チョコレートを良いと評価しても、悪いと評価しても、対して我々の生活に影響はないと思うかもしれない。
けれどいったんこの「評価」が人間に、そして自分自身に向けられた時、我々は無限にも思える迷路の中で迷い続けることになる。

たとえば「親切な人」がいる。だけどその人は実は、良い人でも、悪い人でもない。
我々の評価が、その人に価値を与えているだけだ。
たとえば「男らしい男」がいる。だけどその人は実は、良い男でも、悪い男でもない。
我々の評価が、その男に価値を与えているだけだ。
これが強がりだと思うだろうか? もし思うなら、あなたはその時点で、やはり自分や人に「評価を加えている」ことになる。
「評価」は「実体」ではない。我々の空想だ。


だが、評価することをまったくやめられると言っているわけではない。
そもそも、人間が評価を完全にやめることは不可能だ。
だが「評価する」ということがゲームだと理解しながら遊ぶことは出来る。




自尊心という空想

自尊心の低さは、様々な箇所で不幸をもたらすと風のうわさで聞く。
自尊心は個人の幸福のレベルに、大きな影響を与えているという。

しかし、「自尊心」とは何だろう。
「自尊心」は、我々が当たり前のように存在すると考えている、現代の共通語だ。
果たしてあなたの友達同士で「自尊心」という言葉が、よく話題にのぼるかどうかはさておき、この言葉自体が通じない人はまずいない。
つまり「自尊心」は、我々が「存在するもの」として扱っている、空想のうちのひとつだ。


「自尊心」はどこから生まれるものなのだろう。
我々が何もしなくても、どこかから降ってわいたように、いつの間にか存在しているものなのだろうか。
いや違う。空想が存在を始めるのは、常に我々の思考や行為からだ。
「自尊心」が存在を始めるのも、我々が「を評価する」という「行為」を始めたときからである。

「自尊心」という要素が人間に、最初から、実体として備わっているわけではない。
「評価する」という行為があるからこそ、自尊心が存在する。(存在するかのように振る舞い始める。)
つまり「評価する」という行為がなければ、必然的に自尊心も存在しない。
たとえば赤ん坊は「自分を評価する」ことをおこなわないので、自尊心という要素自体がそもそも存在しない。


我々は、ないものを、あると思うように出来ている生き物。
存在しないものを、存在するかのように扱う、抽象化の非常に上手な生き物だ。
なので「自尊心」というものも、あると言われればあるような気がしてくるし、存在すると言われれば存在するかのように思えてくる。


「自尊心」という空想の根源。
それは自分自身に対して「価値の大小を判断」するということだ。
つまり自分自身への「評価」が「自尊心の高低」を作り出している。
これは時には意識的におこなわれ、他多くの場合は、無意識的におこなわれている。

ではこの「自尊心」を高めるというのは、どういうことなのか。
それはひとつゲームをして、それに勝つということだ。
「自分の価値」が「大きいと判断」できれば、あなたの勝ち。
「自分の価値」が「小さいと判断」してしまえば、あなたの負け。
今日は勝っても、明日は負ける可能性がある。
今の瞬間には勝っても、5秒後には負けてしまう可能性がある。
たぶん、負ける可能性のほうがずっと高いだろう。人間の脳の構造から言って。


ひとつのゲームに賭けているのだから、あなたには常に、勝つ可能性と負ける可能性がある。
もし仮に幸福が「自尊心の高さ」に直結しているとすれば、幸福になるには、自尊心を高い状態に保っておく必要がある。
だがそのためには、絶えず「自分自身を評価」して、なおかつ「高く評価」する必要がある。
つまり「評価する」というゲームを無限に繰り返す必要がある。
なぜなら、自尊心の根源とは「自分自身」を「評価すること」に由来するのだから。
この二つを断ち切ることは出来ない。


さて、もし「低い自尊心」が「低い幸福感」に直結しているとすれば、あなたはどうにかしてこの「自尊心」というやつを高めたいと思うかもしれない。
だがもうひとつの方法もある。それは「自分自身を評価する」こと自体を、やめてしまうこと。
つまり、このゲームで遊ぶことをやめてしまうことだ。


あなたは「ゲームで勝たなければいけない」と考えているかもしれない。
これがゲームだとすら気付いていない可能性さえある。
実はこのゲームは、やめることが出来る。

「自分自身を評価する」というゲームから降りれば、必然的に「自尊心」という空想も消える。

それがあなたの幸福のためになるかどうかは、試してみると良い。
このままゲームで遊ぶのが良いかもしれないし、もしかしたら今よりももっと賢くなって、今後は勝ち続けることが出来るかもしれない。

だけど「自己評価」という行為自体が、ゲームだということは覚えておいた方が良いと思う。
なぜなら、ディスプレイに近づきすぎて目を悪くしないように。
ゲームをゲームだと気付かないまま遊び続けるのは、きっと体に悪いから。

2017年2月1日水曜日

「生まれただけで価値がある」の嘘 (と「生まれただけでは価値がない」の嘘)

「生まれただけで価値がある」
「生まれただけでは価値はない」

この両方の考え方が、世の中にはある。
一体、どちらを信じれば良いのだろう?


そもそも価値とはなんだろう。

「価値がある」と考えるのも、
「価値がない」と考えるのも、
実は「価値を判断していること」には変わりがない。
「物事には、価値の有無がある」という共通のベースの上に築かれている。

この信念は固く、多くの場合、我々は価値の有無によって、その高低によって、物事を判断せざるを得ない。
たとえ「全ての物事には価値がある」「価値のないものはひとつも存在しない」と考えたとしても、それは同じゲームの土台の上で、細かなルールだけを変えようとしているようなものだ。
だが今までと等しく、同じゲームで遊んでいることには変わりがない。
つまり、物事の価値を等しく認めているようであって、「物事に価値が存在する」という共通の土台からは自由ではない。


我々は、あらゆることに関して価値を判断せずにはいられない。
だが判断するからこそ価値が生まれ、そして価値の有無が生じる。
とするならば、もし「価値を判断する」という行為自体がなければ「価値がある」と「価値がない」の両方が、いっぺんに消えてしまうはずだ。


たとえば人生論でいうと、
「生まれただけで価値がある」というのは、確かに尊い考え方だと思う。
「生まれただけでは価値がない」「努力するから価値がある」というのも、悪くない考え方だと思う。
だがもうひとつの選択肢は「価値を判断する」ということ自体のロジックを認識することだ。
これが実在しないゲームだと知りながら、ゲームに乗ったり、降りたりすることだ。

価値自体が空想であると想像してみよう。