2017年1月31日火曜日

命の価値は平等ではない。(だが、不平等でもない)

時間がないので、忘れないうちに簡単なメモを。

仮に「命の価値は平等」であるとしよう。

- Aさんの価値 = 1
- Bさんの価値 = 1
- Cさんの価値 = 1

もしこれが真実なら、以下が成り立つ。

Aさんの価値 + Bさんの価値 = 2 > Cさんの価値 = 1

つまり「AさんとBさんの両方をあわせたら、Cさん1人より価値がある」という図式が成り立つ。
この時点で、ロジックの崩壊を感じないだろうか。

「価値」とは本質的に「比較可能」なものだ。

なので「命の価値が平等である」という主張は、「比較物が比較不可能」と言っていることになる。
つまり、片手にメジャーを持ちながら、片方では「比べてはいけない」と言っているようなものだ。

では果たして、命に価値はあるのだろうか?
あるとすれば、それは平等なものなのだろうか?

そもそも「命」と「価値」を結びつけるという行為自体に、必然的に矛盾が生じる。

問題設定自体が誤っていれば、永遠に答えは出ない。

2017年1月29日日曜日

人生という名の宗教

どのような価値基準で生きるか、ということは我々にとって重要な課題だ。
そして、我々が何かに対して評価を加える時、我々は逆に、価値感の奴隷となる。

「お金を稼ぐのが偉い」
「仕事ができるのが偉い」
「異性にモテるのが偉い」
「結婚して子をもうけるのが偉い」
「神を信仰するのが偉い」

良くも悪くも、我々はこういった社会的洗脳の下で生きている。(この言葉が激しく聞こえるなら、これを「空想」と読み替えても良い)
洗脳の存在しない社会は、そもそも社会として存在しない。
それでも洗脳から自由だと思っているのは、我々は「自分自体にかけられた洗脳」は、盲点として見えないように作られているからだ。

ダメだ。そんなことは忘れて、自分自身の人生を生きよう。
外面的な価値基準を捨てて、内面の価値基準に従って生きる方がずっと良い。
そして最後に「ああ、良い人生だった」と思ってこの人生を終えよう。
それが「本当に重要なこと」であり「良いこと」なのだ。
周りに振り回されず、自分の心に従って生きることが重要だ。

さあ、あなたはついに「最も大事なこと」に目覚めた。
だが、しかし、本当にそうだろうか?


「お金でも仕事でもなく、もっと重要な事が、人生にはある」
「後悔しないような人生を生きたい」
「人生でほんとうに重要なことをやり遂げたい」

「外面的な評価基準」を捨てて、新しく「内面的な評価基準」を選ぶ。
しかし、このように、より好ましく見える新しい評価基準を選んだとしても「評価する」ということ自体の呪縛からは自由ではない。
古い契約書を捨てて、新しい契約書にサインする。だがこれが契約であることに変わりはない。

なぜ僕たちは、世の中には「良い人生」と「悪い人生」があると思うのだろう。
どうして人生に価値の順番をつけようとするのだろうか?


時代によって、洗脳の種類も変わる。
「より古い洗脳」が「より新しい洗脳」を塗り替えて、我々は「真実に近づいた」ような気持ちになる。
だがそれは実は「より古い奴隷主」が「より新しい奴隷主」に変わっているだけなのではないだろうか。
ある種、我々が洗脳を受けた奴隷であることには変わりがない。

「評価する」という行為は、我々の文化にあまりにも深く根付いており、もはや見えないぐらいに思考体系をコントロールしている。
これはもはや我々の血肉と言っても良い。このため捨てることは容易には出来ない。
だが、この「評価する」という行為は、たとえ人類全体には寄与しても、個人にも寄与するとは限らない。


ひとつのやり方は、自分にとってベストな評価基準を選び、それに従って生きること。
もうひとつのやり方は、評価することを一切をやめてしまうこと。これはなかなか難しいが、個人の幸福には寄与する可能性がある。

ちなみに「幸福」は実在する。
我々が感じ取っているもの総体の呼び方だからだ。


僕は「どのような評価基準で生きれば、一番幸福なのだろう」ということで、たびたび悩みを感じていた。
どうすれば一番良い人生を生きられるのだろうと考えていた。
だが、永遠に答えは見つからないような気がしていた。

それも当たり前だ。「良い人生と、悪い人生がある」と考えている時点で。
「人生の良し悪し」を価値基準にしている時点で、それは既に負けが決まったゲームだったのだ。
なぜなら「人生」という概念もまた、人間が作り出した空想にすぎないからだ。

なので今僕は「人生」という名の宗教から脱出しようとしている。

人生は存在しない | 「サピエンス全史」を読んで思ったこと

世の中には、存在するものと、存在しないものがある。

たとえば「貨幣」や「国家」や「会社」というものは実は存在しない。
だが我々のほとんどが「存在する」と信仰しているせいで、それらはまるで存在するかのようにふるまう。
これは社会におけるお約束事だ。

だがこの約束事は、あまりに文化に深く入り込んでいるせいで、我々はふだん「存在」と「非存在」を区別することが出来ない。

たとえば「人生」は存在しない。
まるで存在するかのように「ふるまって」いるだけだ。

たとえば世間で、誰かに「人生はかくあるべし」と語れば、(多少煙たがられはするだろうが)当たり前のように話は通じるだろう。
それは我々の全員が「人生」という空想を信じているからだ。
これは文化的なお約束事であり、一種のフィクションのようなものだ。

人は「良い人生」を送りたいと思うし、「悪い人生」は送りたくないと思う。
だけど人生とはそもそも何なのか。それは、我々の頭の中にしか存在しない概念だ。


ところで、問題設定が間違っていると、答えというものは決して出ない。

「良い人生を送るにはどうすればいいのか」
「人生の意味とは何なのか」
「どんな生き方をすれば、人生で後悔がないだろうか」

こんな風に考えてみても、多くの人にとって、納得のゆく答えを出すのは難しいだろう。
なぜならそもそも、人生は空想であり、それに対して投げかける疑問も、必然的に空想上の問題定義となるからだ。

人生という空想を信じて、それが幸福に寄与するならば良い。
だがもし逆に不幸になるならば、それについて考えることをやめてしまった方が良いのではないか。

僕はこのことに気付いてから、頭の中がかなりクリーンになったような気がする。
なぜなら「人生について考えること」こそが「もっとも本質的なこと考えること」だと思いこんでいたからだ。

多くの「非本質的なもの」が剥がれ落ちた後に、最後に残る「本質的なもの」が人生である。
という「幻想」に、気づかずにはまり込んでいた。これが精神の大きな重荷になっていたことに気付くことが出来た。

ちなみに「サピエンス全史」には、上記のような「人生の空想」について書かれているわけではない。だが有用な本なので、興味があれば読んでみてほしい。



2017年1月2日月曜日

休日は秘密基地

休日は、秘密基地であってほしい。
僕にとって、休日の理想の過ごし方は、それだ。

土曜か日曜の片方は、出来るならば、誰との予定も入れずに、自分ひとりだけの時間を過ごしたい。
なおかつ、退屈ではなく、無為でもなく、後悔をしない、素晴らしい休日を過ごしたい。
これはなかなか難易度が高い。

なぜなら、いったい何をもってして「有意義」と言えるのだろうか?
たとえどんな過ごし方をしても、やはり夕暮れ時に「時間が過ぎてしまった」と悲しくなるのは、何故なんだろう?


僕は有意義な休日の過ごし方を、めまぐるしく、色々なことを達成することだと思っていた。
「たくさんの本を読む」
「自室でたっぷり瞑想をする」
「仕事の勉強をする」
「英語の勉強をする」
「ブログの記事を3本は書く」
「お気に入りのカフェで読書する」
「美味しいランチを食べる」
「人と会って話をする」

これを全て、満足がゆくように、1日でやり遂げられたら、それが結意義な休日のはずだ。そう考えていた。
だけど違う。実は休日に、そんな時間はない。
最近薄々、全てをやることは無理だということに、ようやく気づき始めた。
「時間の使い方をうまくする」とか、そんなレベルの話でもない。
(いま言葉では表現できないが、時間の使い方がどんなにうまくなっても、もっと重要な問題が解決できない気がしている)

時間というものは貴重で、少ない。
僕らの見積もりよりも、あまりにも早く過ぎ去っていく。
たとえば人と会えば、自分ひとり何かをする時間がなくなる。
仕事の勉強をすれば、英語の勉強をする時間がなくなる。
ランチを味わって食べれば、1冊の本を読む時間は削がれてしまう。

そう、一番大きな問題とは、そもそも「理想の過ごし方」の間違いにあるんじゃないか。
「より多くのことを、たくさん達成する」のではなくて、
「より重要なことだけを、少なくおこなう」という戦略に、切り替える必要があるんじゃないか。ということを考えていた。
それぐらい僕は、時間というものの儚さを感じている。


僕たちは日々、様々なノイズの中で生きている。
だから自分の心を深く見つめたり、立ち止まって内省をする時間がない。
そもそも、内省をする具体的な方法が分からない。

僕たちはごくたまに、人生のヴェールが剥がれて「より良き生き方」が垣間見える瞬間がある。
だがそんな瞬間は恐らく、数年に一度ほんの偶然に訪れれば良い方だ。
そして時間が経てば、やはりまた、同じような日常に戻っていく。
偶然に任せていては、あまりにも人生の「気付きの瞬間」は少なすぎて、人生に追いつくことが出来ない。
もっと良い生き方がしたいのに、いつの間にか時間は流れ、死は隣にまで迫ってくる。

街へ出て本屋に行けば、心理学や、自己実現や、コミュニケーションのとり方など。
人生のより良い過ごし方を、多くの本が説いている。
だけどそんな本も、ゆっくり読む時間がない。
一度読んで感動した本も、二度目に読めば精彩を失っている。
どうして僕たちは「人生の意味」を、こんなに少ない頻度でしか、掴み取ることが出来ないのだろう?


僕にとって、休日というのは、深いレベルでの「考え事」をする時間であってほしい。
そして何らかの答えを見つけて、その次の日からは、人生のニュアンスが違って見えるようになる。
贅沢をいえば、そんなレベルでの内省を得たい。

多くの人にとって、日曜日の終わりは悲しい。だがそれはきっと、明日に希望が持てないからだ。
もし明日に希望があるならば、月曜日は苦しいものではなく、新しい人生の実験場になる。
だからこそ、日曜日にすべきなのは、人生に希望を取り戻すこと。そのための地盤づくりをすることだ。

昨日知らなかったことを知り、今日は昨日よりも賢くなる。
明日から、どの方向を向いて、どんな風に進めば良いのかを考えて、決める。
休日の間に、心のノイズを洗い落として、自分自身のナチュラル心に立ち戻る。

秘密基地に戻って、基礎研究とメンテナンスをおこなう。
エネルギーを満タンにしてから、またフィールドに出かけてゆく。
そんな休日が、僕の理想だ。

2017年1月1日日曜日

インドアよりアウトドアのほうが偉いと誰が決めたんだ?

なぜ世間では、インドアよりもアウトドアが偉いのだろう。
誰が言ったわけでもないが、確かにそういう固定観念が浸透しているように思える。
決して、そうないとは言わせない。

たとえば極端な話をすれば、スカイダイビングをしたり、スキューバダイビングをしたり、インドに旅行をしたりする人は、すごく格好良い。
人生を存分に味わっているイメージがある。たぶん、実際にそうなのだろう。
アウトドアであればあるほど、人がしない経験をしていればしているほど、人間としての魅力、そして厚みが増すような感じがする。
小さな行動範囲で漫然と過ごしていては、決して経験できないものがそこにはある。

たとえばその逆に、1日を家で過ごすということは、まさに「人生を楽しんでいない」「時間を無駄にしている」ことの典型だ。
たとえば、自分の部屋でインスタントコーヒーを飲むことは、決して格好良いことではない。ありふれたことだし、まったくすごいことでもない。


僕は今日、やかんでお湯を沸かして、インスタントコーヒーを味わって飲んだ。
やかんでお湯を沸かすこと、ガスの温かい火を見ること、コーヒー粉の匂いを嗅ぐこと、熱いお湯の入ったやかんを運ぶこと、そしてミルクを溶かすこと、コーヒーを飲みながら、過ぎてゆく時間を楽しむこと、窓から見える雲の流れを、目で追うこと。
その全てが素晴らしい経験だった。
だけど世間的には、インドアではこういった素晴らしい経験は、できないということになっている。そういうお約束になっているのだ。


「スカイダイビングが本当に素晴らしくて」
「自宅でコーヒーを飲むのが本当に素晴らしくて」

という二人の人がいたら、絶対的に理解されやすいのは前者だろう。誰にでも分りやすい。
だが、後者はすぐには理解されないはずだ。おそらくしばらくの説明を要する。


僕らは無意識に「この過ごし方なら楽しいだろう」「こんな過ごし方では楽しめない」という固定観念を持っている。そして、固定観念に引きずられて休日を過ごしている。
たとえば、公園を歩くよりはディズニーランドに行く方が楽しいと考えているし、カップラーメンを食べるより高級レストランの方が美味いと思っている。
自分の部屋から見える景色よりも、スカイツリーの頂上から見える夜景のほうが綺麗なはずだと、考えている。

そして、ありふれた行為の中から、何らかの体験をしようという発想は、そもそも浮かびもしない。
体験は外部からやってくる、決して、自分自身で発明するものではない、ということになっているのだ。


だが、世間で言われているどんな楽しみ方よりも「自分の気に入る過ごし方」を見つけるのが、実は、一番喜びが大きい。
それは固定観念による喜びではなく、自分の体験をフィルタなしに味わう行為だからだ。

だから僕は、一杯のインスタントコーヒーを心から楽しみたい。