休日は、秘密基地であってほしい。
僕にとって、休日の理想の過ごし方は、それだ。
土曜か日曜の片方は、出来るならば、誰との予定も入れずに、自分ひとりだけの時間を過ごしたい。
なおかつ、退屈ではなく、無為でもなく、後悔をしない、素晴らしい休日を過ごしたい。
これはなかなか難易度が高い。
なぜなら、いったい何をもってして「有意義」と言えるのだろうか?
たとえどんな過ごし方をしても、やはり夕暮れ時に「時間が過ぎてしまった」と悲しくなるのは、何故なんだろう?
僕は有意義な休日の過ごし方を、めまぐるしく、色々なことを達成することだと思っていた。
「たくさんの本を読む」
「自室でたっぷり瞑想をする」
「仕事の勉強をする」
「英語の勉強をする」
「ブログの記事を3本は書く」
「お気に入りのカフェで読書する」
「美味しいランチを食べる」
「人と会って話をする」
これを全て、満足がゆくように、1日でやり遂げられたら、それが結意義な休日のはずだ。そう考えていた。
だけど違う。実は休日に、そんな時間はない。
最近薄々、全てをやることは無理だということに、ようやく気づき始めた。
「時間の使い方をうまくする」とか、そんなレベルの話でもない。
(いま言葉では表現できないが、時間の使い方がどんなにうまくなっても、もっと重要な問題が解決できない気がしている)
時間というものは貴重で、少ない。
僕らの見積もりよりも、あまりにも早く過ぎ去っていく。
たとえば人と会えば、自分ひとり何かをする時間がなくなる。
仕事の勉強をすれば、英語の勉強をする時間がなくなる。
ランチを味わって食べれば、1冊の本を読む時間は削がれてしまう。
そう、一番大きな問題とは、そもそも「理想の過ごし方」の間違いにあるんじゃないか。
「より多くのことを、たくさん達成する」のではなくて、
「より重要なことだけを、少なくおこなう」という戦略に、切り替える必要があるんじゃないか。ということを考えていた。
それぐらい僕は、時間というものの儚さを感じている。
僕たちは日々、様々なノイズの中で生きている。
だから自分の心を深く見つめたり、立ち止まって内省をする時間がない。
そもそも、内省をする具体的な方法が分からない。
僕たちはごくたまに、人生のヴェールが剥がれて「より良き生き方」が垣間見える瞬間がある。
だがそんな瞬間は恐らく、数年に一度ほんの偶然に訪れれば良い方だ。
そして時間が経てば、やはりまた、同じような日常に戻っていく。
偶然に任せていては、あまりにも人生の「気付きの瞬間」は少なすぎて、人生に追いつくことが出来ない。
もっと良い生き方がしたいのに、いつの間にか時間は流れ、死は隣にまで迫ってくる。
街へ出て本屋に行けば、心理学や、自己実現や、コミュニケーションのとり方など。
人生のより良い過ごし方を、多くの本が説いている。
だけどそんな本も、ゆっくり読む時間がない。
一度読んで感動した本も、二度目に読めば精彩を失っている。
どうして僕たちは「人生の意味」を、こんなに少ない頻度でしか、掴み取ることが出来ないのだろう?
僕にとって、休日というのは、深いレベルでの「考え事」をする時間であってほしい。
そして何らかの答えを見つけて、その次の日からは、人生のニュアンスが違って見えるようになる。
贅沢をいえば、そんなレベルでの内省を得たい。
多くの人にとって、日曜日の終わりは悲しい。だがそれはきっと、明日に希望が持てないからだ。
もし明日に希望があるならば、月曜日は苦しいものではなく、新しい人生の実験場になる。
だからこそ、日曜日にすべきなのは、人生に希望を取り戻すこと。そのための地盤づくりをすることだ。
昨日知らなかったことを知り、今日は昨日よりも賢くなる。
明日から、どの方向を向いて、どんな風に進めば良いのかを考えて、決める。
休日の間に、心のノイズを洗い落として、自分自身のナチュラル心に立ち戻る。
秘密基地に戻って、基礎研究とメンテナンスをおこなう。
エネルギーを満タンにしてから、またフィールドに出かけてゆく。
そんな休日が、僕の理想だ。