2016年12月30日金曜日

たまに歩くのが遅くなるのは僕だけですか?

たまに、すごく歩くのが遅くなる。

仕事でエネルギーを使った日とか、帰り道、本当にゆっくりとしか動けなくなる。
大げさではなくて、歩くスピードが1/3ぐらいになる。
たまに、立ち止まってしまいそうになる。

今朝は休日だけれど、起きたてにも関わらず、ほんとうに動きがノロくて、やばかった。
顔を洗って、風呂に入ろうとするだけで、かなりの時間がかかった。
これって、本当に具体的な原因が分からない。
別に気持ちが落ち込んでいるわけじゃない。
心はむしろ平穏で、エネルギーがある。

色々と考えてみる。
「前に風邪をひいたから、筋力が低下したんだろうか?」
「足首にシビレが来ているんだろうか?」
「履いている靴が悪いんだろうか?」
「昼食を抜くのがいけないんだろうか」
「単に予定がないからとか、気持ちや目的意識のせいだろうか」
だけど考えてみても、結論は出ない。

ネットで「動き 遅い 体」とか調べても、ほとんど何もヒットしない。
だけどコーヒーを飲んだり、野菜を食べたり、ゆっくりと過ごしていたら、午後にはいつの間にか動きのスピードは元に戻っていた。

これを単に疲れのせいだと言うことも出来るだろうけれど、体が疲れている感覚はない。
体のどこが悪いというよりは、単純に「エネルギー状態」が低下しているといった感じ。
だけどエネルギー状態の低下が、頭痛とか胃痛とかではなくて「動きがノロくなる」という現象として、ここまで顕著にあらわれているとすれば、これは本当に不思議だ。すごく人体の不思議だ。

人のコンデションというのは、本当に個人によって別々の部分に反映されるのは知っている。
それがたまたま僕の場合は「動きがノロくなる」という現象だったのだろうか。
この現象がときおり起こる。やはり傾向としては、休息がとれていなかったり、仕事で頑張りすぎた時に起こりやすいように思う。
そして、たぶんお医者さんに行っても解決しないものだと思っている。
(「疲れのせいですね、休んでください」って済まされるんじゃないだろうか)

いつか科学が人体の不思議を測定してくれて、いま体はどういう状態で、これを治すにはどうすれば良いのか、ということをセンサーか何かで教えてくれれば良いのだろうけど。
医学が進んだとは言っても、症名のつかないような「人体の基礎的な働き」の部分では、膨大な未知の部分があるんだろうなと想像した。


コミュニケーションは人を理解するための手段だ

コミュニケーションというのは本当に奥が深い。
どこにも正解は存在しないような気がするし、実際に存在しないのだと思う。


たとえば二人の人間が話し合うとしたら、僕が理想とするコミュニケーションは、次のとおりだ。

- 普段するような他愛のない雑談ではなくて、もっと人生や、物事の本質を洞察するものであること。
- 会話の中から何らかの哲学を引き出せること。
- これは大げさな言い方かも知れないが、話が終わった後は、お互いに人間として少し成長していること。

コミュニケーションもそういうものであってほしい。


ただの雑談というものは、本当に退屈だ。
最近のドラマや、芸能人の話なんかどうでもいい。
これは恐らく、こういった本質的に退屈なのではなくて、単に僕が興味がないだけだ。
たとえば僕は瞑想に興味があるから、その話であれば楽しむことが出来るだろう。

だから、お互いに興味がある分野の話は、面白い。
きっと会話は盛り上がるはずだ。
興味の対象が同じだということは、素晴らしいことだ。
共通点があるからこそ、会話は素晴らしいものになる。


だが、本当にそうだろうか?


たとえお互いに興味のある分野の話が出来たとしても、それがただの情報交換、意見の交換、熱量の交換に終わるとしたら、一見結意義な話をしているようであって、実際には何もしていないのではないだろうか。
それは、お互いという人間を少しも理解していないからだ。


コミュニケーションが、ただの口を動かす運動だと、無意識に考えている人もいる。
コミュニケーションが、ただ自分が話しまくって、気分を晴らすことだと思っている人もいる。
コミュニケーションは、人の話をよく聞くことだと考えている人もいる。

だがコミュニケーションというのは、お互いという人間を、少しでも理解するための手段だと僕は思う。
会話によって相手を理解し、相手を理解することによって自分も理解する。そして人間として一歩前進するというのが、僕にとって理想のコミュニケーションだ。

そういう意味で、多くの人と同じように、僕はコミュニケーションがすごく下手だ。
こう考えると、僕らの人生は長くても、どれだけ普段人と「コミュニケーション出来ていない」ことだろう。


人生が終わるまでに、あと少しでも、人と分かり合えますように。

体質変化。糖質制限を続けていたら舌が糖質に敏感になった。

糖質制限を始めて1ヶ月以上が経つ。
今日気づいたことは「最近、舌が甘さに敏感になった?」ということだ。

本を読んで、そういう現象が起こり得るということは知っていたが、きっとプラシーボ効果に違いないということだ。
だけどどうやら、自分にも同じことが起きているようだ。

たとえば野菜ジュースを飲むと、ものすごく甘くて、野菜を摂っているというよりも、砂糖を口に放り込んでいる気分になる。
昔、はじめて野菜ジュースを飲んだ時は、甘いラインナップのものでも、野菜の苦味を強く感じていたはずだ。

たとえば、久しぶりに第三種のビールを飲もうとしても、ものすごく甘くて、舌がまったく受け付けない。
ビールの苦味よりも、甘さを5倍ぐらいは強く受け取るようになった。
「なんだこの砂糖水は!」といった感じ。

今までは頭で考えて糖質を制限していた。
だけど今は、頭ではなくて舌が「こんなに甘いものは無理」といって、自然に反応している感じだ。
こう考えると、今までは舌が糖だらけの生活に慣らされていたんだなと思う。

これが本当に肉体的な現象なのか、プラシーボ効果なのかは分からないが、個人主観的には味覚に変化が起きていることは確実だ。

この減少でひとつ良かったことは、ガムシロップ入りのコーヒーとか、たまに楽しみに味わう糖分でも、必要なのごくは少量になったこと。そして、前よりも甘さを楽しめるようになったことだ。
ふだん糖質を控えているからこそ、人より糖質を楽しむことが出来るとは、思いも寄らなかった。

やはり「体は本来、良い食べ物を知っている」のだなと思った。


いや、待て。本当にそうだろうか?
たとえばこんな話を聞いたことがある。
菜食主義を続けている人は、肉を食べるとものすごく気分が悪くなったりするという。
だが糖質制限では、肉をたくさん食べることはむしろ推奨されている。
では、このどちらの現象が正しいのか?

これはおそらく「体は良い食べ物を知っている」という話ではなくて、食習慣が味覚や体質を変えてしまうということの証拠ではないだろうか。

面白い!

2016年12月26日月曜日

5年ぶりの自炊

外食ばかりで食費が驚くほど高い。家賃よりも高い。これはやばい。
ということで、5年ぶりぐらいに自炊をした。

過去の反省をもとに、いくつか方針を決めた。


- 電子レンジ、冷蔵庫は使わない。ジプロックに詰めて、冷蔵庫に入れて、あとで温めて食べる時の味気なさと言ったら。だから、あえて効率を重視しない。食べ切れる量の食材を買って、使い切る。

- カレーは作らない。カレーを作ったときの、洗い物の手強さと言ったら。あれで料理の辛さは3倍に跳ね上がる。あと、毎日のカレーは本当に飽きて辛くなる。

- 作るのが簡単なものしか作らない。選ばない。主に鍋を作る。というか、鍋しか作らない。スーパーでも、包丁で切らなければいけない食材はなるべく買わない。封を切ってそのまま放り込めるようなものを選ぶ。

- 美味しそうに見える環境を整える。具体的には、鉄鍋ではなくて土鍋を買って使うようにした。鉄の鍋だと、どうしても「味気ない感じ」がしてしまう。気分はものすごく大事。お椀も漆器の良いやつを買いたい。


ところで、まな板も危うく置けないような我家のキッチンだ。
そして冷蔵庫、電子レンジは人にあげてしまって、無い。

だがこれを逆手に取って、最小限の環境でも続けられる、シンプルでミニマムな料理をしてみる。

2016年12月23日金曜日

君は「限界的練習」を知っているか?

- 超一流になるのは才能か努力か?
- 究極の鍛錬
- 君もチャンピオンになれる
- アメリカ海軍が実践している「無敵の心」の作り方
- GRIT

最近、人間が能力を最大限に伸ばすための、優れた本が出版されている。
その内容は主に、人間が能力を伸ばすには、漫然とした練習ではなく、発明的な練習、強いレベルの訓練が必要だというものだ。

僕は、まったく、決して、この本に書かれているような「世界レベルの人材」に近いわけではない。
それどころか、おそらくその対極にいる。
社会人が普通に身につけているスキルさえ身についておらず、基礎から作り上げているようなレベルだ。

その自分が「世界最高レベル」云々と書かれている本を読んで、果たして役に立つのだろうか?
仮に、今から最高の人材を目指したとして、人生の時間は足りるのだろうか?
今さらあがいたところで焼け石に水なのではないだろうか?

だが、世の中の物事は0か1ではない。
たとえ本に書かれているような世界レベルの人材に果てしなく遠くとも、今よりも少しでも良い訓練の仕方を身に着け、少しでも成果を得やすくなるならば、もっと人の役に立てるし、人生はもっと楽しいものになるはずだ。

そして、どうせ自己成長をしようと思うなら「世界最高レベル」といった境地から、トップダウンで考えていった方が良いというのは分かる。
たとえば草野球をしている少年でも、YouTubeでメジャーリーグの最高のプレイを観るのは最高の教材になるだろう。

重要なのは、物事と理解だ。
今までの悪が善に変わり、善が悪に変わる。

意識や肉体にプレッシャーがかかると、以前は「ストレスがかかっている」「やりすぎると嫌いになるから、ほどほどにしておこう」と考えていた。
だがこのプレッシャーこそが、自分を成長させてくれる要素なのだと考えれば、「でも、面白い」と理解することが出来る。体内の感覚が変わる。

僕はこの「辛い、でも楽しい」という感覚を、少しずつ育てていきたいと思った。
なぜ少しずつなのか? それはプレッシャーのレベルをいちどに上げすぎて、燃え尽きてしまったことも多々あるからだ。




夢がある人、夢がない人、どっちでもない人

世の中には、趣味がない人がいる。
「何か好きなことがありますか?」と聞いても、ショッピングとか、映画とか、旅行の話ばかり。
それだと話していても、面白くない。退屈だと感じる。

かたや、趣味だらけの人もいる。
毎日が楽しくてキラキラしていて、いつでも新しいことにチャレンジしている。
大きな夢があって、人と接することが大好きだ。
だけどそれは、マルチ商法の人だったりする。

僕には今、大きな夢がないのかもしれない。
だから「夢のある人」から「あなたの夢はなんですか?」と聞かれると、なんとなく居心地が悪くなって、口を濁してしまう。
そして、その帰り道、自分の夢はなんなのだろうと自問自答しながら歩いたりする。
(本当は心がとりつかれるような、大きな目標を見つけたい)

「夢のある人」は、時々まるで「夢がある方が偉くて、ないのは偉くない」みたいなそんな威圧感を受け取る。
夢はあって当たり前。夢がなくては人間未満だ。そんな風に言われているみたいだ。

僕に今、夢があるとすれば、それは内面的な成功だ。
たとえば、毎日仕事を集中して、瞑想をして、心理学の本を読んで、自分自身の心をコントロールできるようになることだ。
だけどそれは「夢のある人」には響かない。
なぜなら「夢のある人」は「社会的に分かりやすい成功」や「人のためになること」が「夢」の定義だと思っているからだ。
ごく個人的な成功は、スケールが小さい。そんなものは夢ではない、と切り捨ててしまっている。
だからどうにも、この話は伝わらない。

逆に「やりたいことがない人」にも、やはりこの話は伝わらない。
なぜなら「自分を改善していく」という価値観の部分で、共感が出来ないからだ。

人間は基本的に「自分と同じぐらいの温度感」の人を好むように出来ていると思う。
やりたいことがない人は、やりたいことがない人といるのが心地良い。
夢がある人は、夢がある人と付き合うのが楽しい。

人間関係には、無限の選択肢があるように見えて、しかし「同じぐらいの温度感」で「同じ方角を見ている」友達を見つけるのは案外難しい。少なくともけっこうな手間と時間はかかるだろう。
 f
僕たちはごく限定的なステートの中で生きている。

2016年12月19日月曜日

左利きを15年間、訓練して両利きになった話

僕は左手でご飯を食べる。
生まれつきではなくて練習の成果だ。これが15年間は続けている。

元は右利きなのだけれど。
今までの人生の半分は、右手で食事をして過ごした。
ちょうどもう半分は、左手を使って食事をしている。

たとえば部屋の掃除をするときも、左手でクイックルワイパーを持ったり、なるべく左手を使うことを心がけている。
だから今では、右手のほうが少しだけ不器用になってきているぐらいだ。

このことを人に話す機会があると、ちょっとだけ興味を持って理由を聞かれるのだけれど。
その訳は、特に面白くない話で。
僕が学生時代、脳トレが流行っていたからだ。
「左手でごはんを食べると、右脳が活性化する」という話を、川島教授か誰かが言っていて、そしてそれからずっと左手ご飯を続けているのだ。

ただ、この「脳トレ」っていう理由はあんまりウケが良くない。
だから、何か別の理由を考えようかなと考えている。
たとえば「僕は、左右対称が好きなんです」「右手が使えるのに、左手が使えないなんておかしくないですか?」とかとか。
「右手ばかり使って、左手が可哀想だと思って」「左手が僕にせつなそうに話しかけてきて」とか。

利き手を増やすのは、ほんのすこしずつだけ、日常の中で、ひとつの能力が上達しているようで面白い。
そして、よく気づく人に対しては、ちょっとした話の種になる。

僕は、軽度のはまり症だ。

たとえば、僕が瞑想を始めたとき。
生きる目的は瞑想による、精神の開拓になった。
これをライフワークとして、少しでも無我の境地にたどり着きたいと思った。
土日も何の予定も入れずに、ただひたすら坐っていたくなった。
瞑想をしていない時間のすべてが無駄にさえ思えていた。

たとえば、仕事にはまる。
夜はスタジオから誰もいなくなるまで残っていたくなった。
なぜ毎日が仕事じゃないんだろう。土日なんかなくなってほしいと願った。

たとえば、実用書を読むことにはまった時。
文字を追うことで脳にエンドルフィンが出っぱなしになった。
本を一冊買うごとに、自分が改善されていく感覚を覚えた。
そうしてkindleの購入ボタンを押し続けた。

たとえば、音楽が素晴らしいと感じた時。
CDから落としてきたWAVE音源じゃないと満足できなくなった。
いつかは最高のオーディオ環境がほしいと思った。
仕事中にもひたすら片耳で音楽を聴き続けた。

たとえば、人と話すことにはまったとき。
1日も暇な日を作りたくなくなった。
BARに通っていた時は、他の常連さんよりも1日でも多く通いつめようと思った。

たとえば、糖質制限を始めたとき。
頭の中はいかにタンパク質のあるものを食べるかでいっぱいになった。
チーズを一口食べるたびに、自分が良くなっていくような錯覚に陥った。

こういうことを、たとえば1ヶ月ごとに繰り返したりする。
そして、大袈裟に言うのならば。そのたびに「これこそが生きる目的だ」という仮定をするのだ。
客観的に見れば、なんとも目標の定まらない状態だと思えるかもしれない。

だけど、これは悪いことなのだろうか?
人生の方針をたびたび変えることは「ブレる」ことなのだろうか。
だけど、僕はそんなに悪いことじゃないと思っている。

いちど「はまって」それからバランスを取って「少し戻る」。
そうして、思い出した時にまた「はまる」。

たとえば逆に、瞑想にはまることもなく、読書にはまることもなく、ただただ過ぎていく時間よりも。
瞑想を覚えて、読書で色々なことを覚えて、そして少しずつだけ「バージョンアップ」を繰り返して、少しずつ良い自分になっていく方が、ずっと人生は楽しいはずだ。
結果的に、自分をひとつの場所に固定させない。
螺旋を描くように、そのときどきで必要なものが目の前に現れる。そいつをちゃんと掴まえる。

よく言えば、過去にとらわれない。
時間というものは、予想以上に自分の環境を変えて、また別のものが必要になる。
たとえ過去にどんなにはまっていたものでも、いま必要でないならば、やらない。
いちど価値があると認めたものだから、心ゆくまで付き合うけれど、もう味がしなくなっているのに、かみ続けることはやめる。
だから、ほんとうに今必要な、新鮮さを感じる、新しいことを見つけにいく。

ところで僕はこのまま、多くの人と同じように、もしかしたら、人生にものすごく大きな目標は持たずに生きてゆくかもしれない。(持つかもしれないけれど)
だけど、それでも毎日を楽しく生きるために、自分を固定させずにいるのは、心地よいことだ。
過去に重要だったものを、まるで状況が変わってまで、重要だと思い込まないこと。
だけど、目の前に現れた「重要なもの」はちゃんと掴んで、大事に扱うこと。

僕はもっと自分に正直になりたい。
決して常に気をうつろわせておきたいわけじゃない。
ひとつのことにはまり込むことは、面白いことだ。
そして、重要でなくなった時に、それを手放すことも。

人生のいろいろな面を味わいたい。
昨日楽しかったことは、今日は楽しくないかもしれない。
昨日美味かったコーヒーも、今日は美味しく感じないかもしれない。
僕らは、今日のパンには今日のジャムを塗ろうじゃないか。

2016年12月17日土曜日

いつの間にか時間が経ち、よそよそしくなる現象

人間関係は作るだけではなくて、維持するのにもコストが必要だ。
僕が不思議なもののひとつに「よそよそしくなる」という現象がある。

ここに二人の人間がいて、かつてはお互いに、挨拶を交わしたことがある。
笑顔で話し合ったこともある。
だけど時間が経過するだけでなぜか、何かきっかけがあるわけでもないのに、まるで他人のような感覚に陥ってゆく。
特に必要性がなければ、連絡し合うことも、挨拶をすることもない。
そしていつの間にか、まったくの他人に戻ってしまう。

人間の記憶というものは薄れるものだ。
いちどは仲良くしても、一人の人間を取り巻く重要度はめまぐるしく変わる。
「重要だった人」が「どうでもいい人」になり、「役立つ人」は「役立たない人」に変わり、「どうしようもなく一目惚れしていた人」は「昔、少しだけ気になっていた人」になる。

ひとつの重要度が上がるということは、ひとつの重要度が下がるということだ。
人は普通、重要でないものに対して、無限にコストを割き続けたりはしない。
僕からこの「よそよそしさ」を他の人に感じることもあるし、おそらく僕も人に対して「よそよそしく」していることがあると思う。
だけどこれを人にされると、なかなか寂しい気持ちになってしまう。
僕は相手を人として見ているのに、僕は人ではなくモノのような扱いをされている気分になる。

決してお互いに「お前の重要が下がった」と口に出して言うわけではない。
だけどたとえば、ふとすれ違った時に、挨拶をした時に、まるで「見知らぬ他人」のような対応や、温度を感じることがある。

むかし父親が母親が言っていたのは、たとえ何十年連絡を取っておらず、久しぶりの再開だって、まったく昔と変わらずに一瞬で「友達」として話し合える、という伝説だ。
僕はその話を信じていた。だけど、僕が見ているものは違う。時代が違うからだろうか。

たとえば花だって、水をやらなければ枯れてしまう。
人間関係だって、同じだ。ごくたまに、少しずつでも良い。
「水をやる」といコストをわずかでもかけること。

が、どうにも億劫だから。僕たちは花を枯らしがちだ。


僕は人間関係にコストを割かない

表題の通り。

たとえば仕事でも「明日こそは他のプロジェクトに話しかけに行こう」なんて考えるのだが、いざ当日を迎えると、仕事に集中して過ごすわけだから、気がづけばもう定時だ。
定時になれば「まあ、また明日で良いか」と考えてしまうし、無限ループ。
おそらくちょっとした時間や、心のコストを割けているのだろう。

「社内でもう少し人間関係を大事にしよう」なんて考えながら、思えばもう半年も経過していたりする。
そうすると、前にちょっとだけ話しかけた人も態度が冷たくなるし、なかなか人間関係(仕事上の良好な関係)ってのを進展させられない。
もちろんチームのメンバーとは仲良くやっているのだが、業務上の関わりが薄いメンバーに関しては、積極的に関われていない状態だ。

(もし仮に僕が就活中で、こんなブログを人事担当者が見たら、採用を見送りたいと思うかもしれない。ちゃんとした言い訳を用意しておかないと!)

昼休みはちゃんと休んだり、外を眺めながら意識を癒やしたり、ソファで瞑想をしたりして過ごしたい。
昼にも人と話していたら、午後に働くコンディションを整えられないじゃないか。
(逆にみんな、昼にちゃんと休まないで、よく1日仕事を続けられるなと思う。無限の体力があるのか。。?)

ところで人生の多くは「どれぐらいコストを割くか」という問題だと思う。
仮に今よりももっと人間関係を重視して、そこにコストを割けば、きっと仲良くなれる人も多いだろう。
だが面倒くさがっていると、いつまでも関係は広がらない。残るのは、本当に相性の良い一握りのものだ。

たとえばスポーツをするのでも、才能よりも「かけた時間」の方がずっと大事だ。
どんなに才能があっても、1年の練習時間が1時間では上手くはならない。
同じように人間関係であっても、何のアクションも起こさない人が、関係を進展させることはない。
逆にたとえ人間性がどうであっても「多く働きかけた人」「時間を費やした人」はそれだけのリターンを得ることになる。

たとえば人気のある子どもはそうでない子どもより、他の子どもに働きかけた回数が6倍も多かったという。
たとえば、モテる男とモテない男の違いは、実は「働きかける量」の違いが大きかったりする。
そう、水面ではなく、水面下で多くの働きが起こっているのだ。

しかし色々な働き方、いろいろな生き方をする人がいる。
人間関係が豊かな人は目立つし、自分とのギャップやコンプレックスを感じやすいけれども。
実はその他にも目立たない人がいて、あまり多くの人間関係を持たずに、わりとひっそりと、だけど周りに迷惑をかけず、自分のスタイルで生きていたりする。
その人たちはまさに「目立たない」がゆえに、多くの人間関係を持たずともやっていけるのだ、という立証さえも目立たない。
だからきっと、僕たちが気付いていないだけだ。

ところで僕は学生時代から、どちらかと言えば群れずに生きてきたタイプだった。
それが良く言えば独立心があるということになり、悪く言えば人間関係がド下手だってことだ。
あえて「うまく群れる方法」を覚えたい。そうぼんやりと思う30代前半。

言うなれば、ずっと「ダイエットを始めたい」とか「運動を始めたい」とか心に思い描きながら、実践に移せていないような状態だ。
今日から、少しずつでも良い。「人間関係」って奴を始めます。

たぶん。おそらく。

そう、来年中には。。。きっと。

2016年12月16日金曜日

話を理解できないのは頭が悪いからじゃない (集中力と興味の話)

頭が良い人と、悪い人がいる。
飲み込みが早い人と、遅い人がいる。
仕事が出来る人と、出来ない人がいる。
人の話を聞いていて、よく理解する人と、理解しない人がいる。
物事の全体像を把握する人と、しない人がいる。

だがこれは多くの場合、おそらく「頭の構造」の違いではないのだ。
それの違いはなにか。
それは「興味」の違いだ。
人が物事に感じる「重要度」の違いなのだ。
短期的にもそうだし、長期的に見てもそうだ。


僕は今日、英語の本を読んでいて、すごいことに気付いた。

最初は文章を読んでいても、英語がなかなか頭に入ってこなかった。
「あ、この単語がわからない」
「どうやったらもっと早く理解できるんだろう」
「本当に英語学習が人生の役に立つんだろうか」
なんてことを考えながら読み進めた。

だけど話がヘンリー・フォードのパートになった時に、急にその話に興味が湧いた。
そうすると、ひとつひとつの文章が無味乾燥なものではなく、急に立体的なものとなり、意識に飛び込んできたのだ。
僕の意識は「いかに英語が覚えられるか」から「ヘンリー・フォードのことが知りたい」というポイントにフォーカスを移していた。

今まで切れ切れだったセンテンスが、急にひとつの塊となって理解されるようになった。
そしてこれが「英語を理解できる状態」だと気付いたのだ。

これは集中力の違いというよりも、もっとコアな部分にある「興味の対象」の違いだ。
なぜなら興味なしには集中は生まれない。
そして、たとえ集中力があっても、興味の対象が他の物事に向いていれば、理解度は落ちる。

誰かが「本を読むときは、これを100万円で買ったと思って読みなさい」と言っていた。
まさに、自分にとっての重要度が、本を読む時の「理解度」の違いとなる。
そしてこの「重要度」は、自分の意識の持ち方次第でコントロールできる。
神経言語プログラミングでいうところの「アソシエイト」という手法にあたるかもしれない。

僕は、この「重要度の操作」をすごく甘く見ていた。理屈としては分かるし、その感覚も一瞬は分かったが、これを本格的に学習に取り入れたことはなかった。仕事にも。


僕は仕事の特定の分野で要件を理解するときとか、人の話を聞く時とか。
どうにも自分で「他の人より理解が遅いな」と思うことがよくあった。
だけどこれも、まったく「頭の良さ」の違いではなくて「興味」の違いであると考えられる。
なぜなら、僕も興味が湧いた分野であれば、真綿のように話を理解して、吸収していくことはある。

逆に。たとえば僕はものすごく方向音痴なのだけれど、それは「方向音痴でも特に困らないし、地理関係を把握することにほとんど興味がないから」なのだと思い至った。


そして人間は恐らく、自分自身の「興味」をコントロールすることが出来る。
まったく同じ対象であっても、重要度を上げることも出来るし、下げることも出来る。
「物事への興味が固定されている」という考え方こそが幻想だ。


たとえば「100万円の本を買ったと思って読む」とか。
「伝記であれば、これが自分の祖先の話だと思って読む」とか。
本ひとつを読むにあたっても、思い描くイメージ次第で、対象の「重要度」は上がり下がりする。
おそらく一番良いのは、物事の重要度が上下した感覚を覚えておいて、あえて補助輪としての「ストーリー」を思い浮かべなくても、重要度を直接コントロールできるようになることだろう。



2016年12月15日木曜日

身長163cm / 体重47kg / 体脂肪率5% / だけど体型は・・・?

タニタの体組成計を買った。
乗ってみると、47kgだった。

身長163cm。

最近体がたるんでいると気になっている。
それで久しぶりの体重測定、55kgぐらいにはなってるんじゃないか? と思いつつ乗ってみたのだが。。
まさかの、高校自体よりも5kgは軽い記録だ。

今まで、人生で「太ったな」と悩んでいた時期は、必ず体重は55kgぐらいを指していた。
だが今回は、体型のことで悩んでいるのに、なぜか人生最軽量の数値。
最初は体重計が壊れているんじゃないかと疑った。
だが、さすがに体重の測定を間違えるような体重計はない。。はず。。

かと言ってどうやら、脂肪でブヨブヨになっているわけでもないようだ。
体脂肪率も5%-8%ぐらい。
家庭用の体重計では仕方ない、精度の低いと噂される「インピーダンス法」だが、何度か乗ってみてこの数値だ。

結果的に、これは体脂肪を落とすのではなく、体を鍛えなければいけないということを理解した。
受け入れがたい事実だが、長いインドア生活の中で、腹筋が著しく衰えてしまったのだろう。

ちなみに、これまでの生活では、1年に1度ぐらい、旅先の温泉とかで体重計に乗るぐらいの生活だった。

自分の場合、食事制限はやりやすいけれど、運動はどうにも習慣化できてこなかった過去がある。
ストレッチは毎日している。あとひとつだけ続けられているのは腕立て伏せ。
これはかれこれ5年は続けているから、同じように「スクワット」「軽い有酸素運動」も習慣化できるんじゃないだろうか。
「運動をするのとしないのとでは、まったく生活の質が違ってくる」というのは、耳が痛いほど、事あるごとに聞いてきた言葉なのだ。
そいつに本当に取り組むべき時が来ているのかもしれない。

有酸素運動は本当に苦手で、というか体がなまっていて、部屋でジャンプを軽く1分間しただけでヘタっとなってしまうのだけど。
まずはこの1分間のジャンプを続けるところから。

体型が崩れていると、自尊心がすごく低くなる。
なんというか、生まれてきたのが間違いだったような悲しい気分になる。
だから本当に自分で恥ずかしくない、不満を感じない体でいたいし、それを維持したい。

ところで、本当に体組成計がおかしくて、実は体重55kgで体脂肪率15%ぐらいあるんじゃないか、という可能性もまだ疑っている。
けど、高性能な身体測定って、巷で簡単にできる方法ってなさそうなんだよな。
5000円とか払って、きちっと体の組織を調べてくれる施設とか、ないだろうか。


2016年12月6日火曜日

[糖質制限] LAWSONの「ブランパン」と「カマンベール6Pチーズ」の組み合わせがヤバイぐらい美味い

本当に、これはやばい。

「ブランパン」は普通に食べると「よく噛めば甘くて美味い」ぐらいの味なのだけれど。
チーズを挟むことによって、塩気との対比が生まれ、びっくりするぐらい甘く感じる。

パンの生地とチーズの風味、脂肪が組み合わさって、まるで
これはすごく感動した。「市販のどんなパンよりも10倍美味い」と感じた。
全人類に一度試してほしいレベルだ。
騙されたと思って、いちどやってみると良い。

ちなみにチーズを入れても1個あたりの糖質は2.5gぐらい。

だが満足度は、他のどんなパンよりも高くなる!
糖質は最低限で、満足度は最大限なのだから、なんともうまい話だ。



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あとは口に放り込むだけだ!

で、どうしてこういう生チーズ入りのパンって、既製品ととして売ってないんだろうな。絶対ヒットするのに。
と考えたら、賞味期限の問題とか色々とあるのかもしれない。

なので、自分でどちらも買って、挟むべし。

[頑固さの話] 僕たちは経験によって愚かになる

年をとると頑固になるという。

僕たちはひとつずつ価値観や判断基準を増やしながら、賢くなった気でいる。
だけど本当は頑固になり、ひとつずつ価値観を積み上げながら、愚かになって行っている。
自分の心を自分で窮屈にしているようなものだ。

たとえば人生で経験を積むと「こういうのは良い人」「こういうのは悪い人」だと段々とその傾向が分かってくる。
だんだんと一目見るだけで、相性の良い人、悪い人が分かるようになってくる。
判断はより早くなり、精度はより向上していく。

だけどそれは実は賢くなっているのではなくて、自分の信念を強化しているだけじゃないだろうか。
「この人は自分に合う」「この人は自分に合わない」という信念を持つと、自分の心構えが変わり、人に対する気持ちや態度が変わる。
それが結果的に、自分の信念を実現してしまうことがある。

たとえば僕の場合、外を歩いていて、人に道を譲らない人が大嫌いだ。
歩行者のすぐ近くまでせり寄せてくる車も嫌いだ。
絶対に人間が出来ていない。性格が悪い。道の歩き方だけで人格が透けて見えると考えたりする。

だけどもしかしたら、道を譲らない人は単に急いでいるのかもしれない。
単に肉体的に、ものすごく視野が狭いのかもしれない。目が悪くてメガネを忘れたのかもしれない。
今日の仕事のことで頭が一杯なのかもしれない。

その本当の理由は分からないが、僕たちはとにかく「自分の信念」によって他の人を判断しようとする。
そしてこの信念はゆるぎなく、どう考えてもその通り、完全に正しいように思えてくるものなのだ。

では、人生の経験が僕らを愚かにするのならば、全ての経験は無駄なのだろうか。
決してそんなことはない。経験というものを、自分の視野を狭めるためではなく、広げるために使うことも出来る。
僕たちがひとつの経験をした時に、価値観を狭めるのではなく、広げる考え方をすることも出来る。

「こういう考え方も許されるんだな」
「自分には受け入れがたい、こういう人でも、社会に許容されて生きているんだな」(ものすごく上から目線だけど、心の中で思う分には問題ない)
「このコンビニのレジの人、お釣りを渡すのがものすごく雑だけど、潔癖症なのかもしれない」
「この人は悪い人だけれど、世間には悪い人がいるから、相対的に良い人もいるんだよな」
「約束を全然守らないあの人は、フットワークが軽くて、行動がしやすいだろうな。自分とは全く逆のタイプだから、どこか学べるところがあるかもしれない」

こういう風に考えることも出来る。

経験は材料。考え方は調理。価値観は料理。
良いクッキングを!

2016年12月5日月曜日

人にタダであげた1万円以上の物たち

PS3本体 + torne。
「ガキの使いやあらへんで」とか「LIFE」とか、色々番組も録画してたやつ。
あとゲームが数本ダウンロードされてた。
売ったら1万円ぐらいにはなっただろうか。

Mac Mini。元は6万円で購入。
「アプリ開発をしよう!」と思い立ったもののの、すぐに使わなくなり死蔵していた。
しかもOSの初期化に失敗して画面が立ち上がらない。
「いつか売りに行こう」と思いながら、3年4年も眠らせていた。
旧型だが、2万円ぐらいにはなったかも。

Happy Hacking Keyboard。元は3万円で購入。
すぐにType-Sの方が気に入ったため、普通のバージョンは使わなくなった。
Amazonで売れば2万円にはなったはず。

ゲルマニウムの肩こり対策ブレスレット。元は3万円で購入。
とにかく肩がこって苦しすぎたため買ったもの。
効き目を感じなかった。
売れば2万円ぐらいにはなったっかも?

今ではそうでもないのだが、当時はとにかく「コンディションを確認して、Amazonで売りに出して、いつ注文が来るか待って、梱包して、宛名を書いて、発送する」ということが、本当に面倒に思えて仕方がなかった。
それは数万円を超えるコストがあるように感じられた。
なので色々と人にあげたりした。

だけど、今でもそんなに後悔したりしていない。
なぜなら僕は人にものをあげることは「価値の移動」だと考えている。

「自分のお金」だけで考えると勿体ないのかもしれないけれど、たとえば自分の手元から実質3万円が失われても、他の人が3万円を得るだけ。
つまり差し引きゼロ。全体では何もプラスマイナスがない。

むしろ物であれば、自分が死蔵させるよりもずっと役立つ。
そんなふうに考えていたりする。
(だからといって、自分の貯金を投げ打ったりはしないけれど)

悔しいのは、自分の想定外のことに、価値を感じられないことにお金を使ってしまうことだ。
「価値の移動」には承認と、そして納得が必要だ。
納得さえあれば、価値の移動は、失うことではない。


2016年12月4日日曜日

私の食事法履歴書 | エセベジタリアン > 粗食 > 糖質制限

糖質制限を始めて10日。本当に体質が変わってきたように思う。
朝は腹が減る。食事をしても眠くならない。食事後に憂鬱な気分にならない。

以前から長く続けていた「カロリー制限」「1日1食的食事法」の場合は、大したカロリーは撮っていないはずなのに、なぜか朝起きると、腹がぽこっとしていたりした。
だが糖質制限で朝昼夜としっかり食べても、朝起きた時の体はすっきりしている。
明らかに「食べた量」と「ぽっこり度」が比例していないのだ。

糖質制限に関しては最近、数冊の本を読んだり、ウェブサイトを調べたりして、結構長くこの食事法を続けているような気になっていたけれど、数えてみると、まだたったの10日間だったことに気付いた。
1ヶ月ぐらいやり続けている感覚だった。

それで「本当に成果が出るのかどうか」毎日チェックしては焦っていた。
なぜなら、始めてから数日は特に、ただカロリーを摂取して太り続けていくのではないかという心配があったからだ。

だが、糖質制限は結果を焦るな。
体質改善。急いてはことを仕損じる。

「もっと早くこの食事法を知りたかった」という気持ちもあるし「いまの年齢で理解、実践できてよかった」という気持ちもある。
人生が今後50年残っているとして、もしこの食事法が優れていれば、今後の年月をずっと「優れた食事法」で過ごすことができる。素晴らしいじゃないか。


僕は食事法にたまに興味を持つことがあって「エセ・ベジタリアン」「粗食」を実践したことがある。

そもそも一番最初、10年前、ひとりぐらしを始めたばかりの頃は本当に食事に無頓着で、1年ぐらいご飯とスポーツドリンクぐらいしか摂っていなかった。これは本当に。


さすがに体調を崩して、次に「エセ・ベジタリアン」になった。
野しっかりタンパク質を摂らずに、ただ野菜や漬物や玄米を食べ続けていた。
TVでウィンナーのCMをみると「人間の食べ物じゃない」と思うレベルになっていた。
だがこのせいで、かなりやせ細ってしまった。
ある日、銭湯で体重計に乗ると、値は50kgを切っていた。
家族、知り合いからも「痩せたね」と心配されるようになり、もう少し太ろうと考えた。

これで思ったことは、ベジタリアンでタンパク質を十分に取るというのは本当に難しいということ。
納豆を3パック食べてもタンパク質量はたかが知れているし、豆類もそうだ。
食べ続けているとすぐに飽きるし、スーパーで買うとものすごく高い。
仮に完璧にこなした時の食事法としては優れていても、実践が本当に難しい。


次に僕は「粗食」を実践するようになった。朝昼は食べずに、夜だけをガッと食べていた。
なるべく胃袋を満たさない方がパフォーマンスが上がる、健康に良いという説があるからだ。
食事をしたあとは猛烈に眠くなって、仕事も手につかなくなるのが嫌だった。
だから昼は抜くようにした。眠気対策というのが粗食を実践した一番の理由だったように思う。

だから日頃から、なるべく日本人的な食事を摂るようにしていた。
だからコンビニでも「おにぎり」や「ご飯類」を選んでいた。
まさにその糖質こそが「眠気」の原因だとはまったく気づいていなかった。

これが最近まで実践していた食事法なのだけれど、今思えば、これも食事後に眠くなったり、憂鬱になったり、カロリー摂取量に比べて腹がぽこっとしたり、夜にはフラフラしたり。
けっこう弊害も多かったように思う。
菓子類やカップラーメンを食べまくるよりははるかにマシだったと思うけれど。


そして今は糖質制限にたどり着いて「眠気対策=パフォーマンスを落とさない」と「肉体の状態改善」を両立できる状態に向かいつつあると思う。
現実的問題に合わせて食事法をバージョンアップf

僕にとって、この二つはとても切実なのだ。
食後の眠気にはどうしても勝てない。中学生の頃からずっと戦い続けていた。
あとは、30代を迎えて腹がぽこっとなってくるのは、どうしても嫌なのだ。
シャワーを浴びながらぽこっとした自分の腹を見ていると、自己評価がすごく低くなる。

周りの人には「ダイエットする必要なんかない」「気にする必要なんかない」と言われるが、これはまったく因果関係が逆で
「普段から気にしているからこそ、体型を維持できている」のだと考えている。
もし僕が「食事に関して全く無頓着」になれば、確実に太り続け、不健康になり続け、骨密度も筋肉量も低下していってしまうことだろう。


「人間は決して、加齢によって老いる」のではないという。
筋肉量の低下によって老いるらしい。
肌だって、加齢ではなく紫外線によって老いていくものらしい。
つまり人間にとって加齢というのは、昔の通説よりあてにならないものなのだ。

たとえば昭和初期の女性なんかは、30歳で、今見るとおばさん、おばあちゃんに見えるぐらい老いていたらしい。(Twiterで聞きかじった話なので定かではないが)
最近、歳を取っても綺麗ない人が増えたのは、肉体を管理する「技術」が発達したからだろう。
「アンチエイジング」というと、自然の摂理に逆らう愚かな行為、というイメージで半分見てしまっていたが。この話はバカにならない。
むしろ肉体は加齢に逆行して改善できる。

こういうことが科学的裏付けをもって市販の書でも手に入る時代は、本当にすごいと思
う。
誰でもその情報にはアクセスできるのだ。
健康や心理学、人間のパフォーマンスなどに関して、10年前よりも市販の書のクオリティは格段にランクアップしている。
それは「科学的裏付け」がこの分野に多く介在することになったからだ。
まさに素晴らしい情報時代だ。

ところで世の中には無数の食事法が出回っているけれど、糖質制限の良さは「高いエビデンスレベル」で実証されたもので、今後、今分かっている前提が覆される確率は低いらしい。

ちなみに「いつ糖質制限を始めたか」というのはメモは取っていなくて。
Amazonでこの本を買った日を起点にしている。ちょうどこの本を買ってから糖質制限を始めたからだ。



「この本を買った時に、糖質制限を始めたな」とさえ覚えておけば、いつでも起点日を簡単に思い出すことができる。すごいぜAmazon。

独自ドメインを取得してブログを書くモチベーションを大幅に上げる方法

独自ドメインを取ると、ブログを書くモチベーションがかなり違う。

僕は他にも meditation-mindfulness.net ドメインでblogeerを使っている。
それで得られた実感だが、
「ブログ=使い捨て=飽きたらやめる」というイメージから、
「ブログ=財産=育てていくもの」というイメージへと、微妙な変化があった。

ちなみに10年分を一気に契約した。
なぜなら、1年だけの契約だと「あー、もういいか」と思う時期がやってきて、ドメインを手放してしまう気がしたからだ。
で、あとあとまた思い出して「続けておけば良かった」と思うかもしれないからだ。

ちなみに .net ドメインだと、10年契約でも12000円ぐらい。
10年間、モチベーションを上げる値段だとすれば安いものだ。安すぎるぐらいだ。(たったピザ4枚分ですよ!)
もちろん10年間ブログが続く確率はかなり低いだろう。
だがドメインを取ることによって「続ける」と「続けない」のどちらに自分の気持ちが傾くかといえば、前者だ。
たとえいちどブログをやめても、ドメインがあることによって、ひょんなことでリスタートしようと思うかもしれない。
その時に「ゼロから始めなくて良い」というのはアドバンテージになるはずだ。

ちなみにBloggerのドメイン設定がかなり面倒そうに思って、ドメインを取った当初はちょっと後悔していたのだけれど。
お名前.com の DNS レコード設定で CNAME を指定するだけだったので、なんとかうまくいった。

ということで、いましがたこのブログのためにも yumainaura.net というドメインを契約してみた。
こいつも10年契約だ。
yumainaura.me というドメインも良いかと思ったが、この記事を読んで思いとどまった。

>【ドメイン】どんなに良いドメインに感じても個人の場合は「.net」「.com」「.jp」以外のドメインを絶対選んではいけない簡単な理由
http://blog.3oku.net/entry/2015/07/02/020507

他に hatena ブログに独自ドメインを設定するのも候補だったのだが、hantenaの場合は独自ドメイン設定のために月額1000円ぐらいも払わなければいけないことがネックになった。
markdown記法で書けるところが良かったのだが、ブログを書く時にあんまりmarkdown使ってないな、と気付いたためだ。

ところでブログを書き続けることの一番の障壁は、三日坊主だ。
「続けること」とか「人に認められること」や「成果を得ること」に対してフォーカスした途端、ブログを書くことは途端に億劫になってしまう。

そうではなくて、ブログを書くことは文章力を鍛えるための訓練だと考えている。
自分の思考を整理して、テキストとして書きおこす。そしてそれが記録として残る。
このプロセス自体が、個人の能力に大きく寄与すると思っている。

ブログを書くというのは、遠い未来の成果や、誰か知らない人の評価のためではなくて、
あくまでも「書いているその瞬間」に、自分にとって役立つものであるべきだと思う。
このフォーカスを外れてしまうと、一気にブログは「義務」というレベルに堕してしまう。

初心忘るるべからず。ブログを書くというプロセス自体を楽しもう。

人間は変化する生き物だ | マインドセット 「やればできる!」の研究

むかし、友達がいた。
その人はとても繊細で、四六時中、自分のことばかりを考えているような人だった。

あまりにも人の気持ちを考えない発言をすると感じたので、僕はそのことを指摘したことがあった。
そうすると彼の返答は「そうだね。僕は人の気持ちを考えられない人間みたいだ」というものだった。

だけど今では、そうじゃないことが分かる。
人間は「人の気持ちを考えられるタイプ」と「考えられないタイプ」に分類されるのではなくて、今までに人の気持ちを考えてきたか、考えてこなかったか。その経験の差があるだけだ。
人間は変化できる。だから今からでも「人の気持ちを考えられる人」になることはできる。
ただしそのプロセスは自動的には怒らない。日常でコツコツと訓練を続ける必要はある。

また別の話で。他にも、また別の知り合いに「人間は変わらない」という強い信念を持った人がいた。
ドラマを見たり、世間のニュースを見聞きしたりしては「やっぱり、人間は変わらないでしょ」と納得を深めているのだった。
だが、世界の見方は人様々だ。
「人間は変わらない」という信念によって世界を見渡せば「変わらない人間の、変わらない部分」だけがフォーカスして見えてくるだろう。
だが「人間は変わる」という信念によって生きれば「どのような人間でも、変化し続けていること」に気付くことだろう。

これは人間が「自分の信念に基づいて情報収集をする」という脳の働きのせいだ。
こうやって人間は自分の信念を強化してゆく。

たとえば君自身のことを振り返ってみて、10年前とまったく同じ考え方をしているだろうか?
君の周囲の人。家族や知り合いに、ここ10年でまったく変化は無かっただろうか。
信念、雰囲気、考え方、行動に1%のブレもなく、変わらないままだっただろうか。
断言しても良いが、10年間もまったく同じ考え方でいることのほうが、変化することより1万倍も難しい。というよりも、それは人間に不可能なことだ。

僕の周囲を見渡しても、皆がひとりずつ成長しており、微妙な変化を繰り返している。
結婚、出産、死別、家族構成の変化、趣味の変化、仕事の変化、ライフスタイルの変化も、人間自身に変化を与える。

もちろん、変化した部分をすべて度外視して、変化しなかった部分にフォーカスして「あの人は変わっていない」と主張することはできるだろう。
だがたとえば、変化していない1個の要素の周囲には、変化している3個の要素が存在するかもしれない。
そして「変化していない」ように思える要素であっても、1回1回の反応を取り出してみれば、ひとつとして全く同じものはない。
すべての事象は、たとえ表面的には全く変わらないように思えても、微妙なマイナーチェンジを繰り返している。ただ、僕たちがそれに気づいていないだけだ。
なぜなら僕たちは無意識に「物事は変わらないはずだ」という信念に基づいて生きているからだ。

人間はいつでも「変わること」を「始めること」ができるし、むしろ変わらざるをえない。
実は1秒ごとにさえ微妙な変化を繰り返している。(この考え方も、信念の一種だろうが)
そしてどうせ変化するのならば、自ら舵をとって、良い方向に変化した方がハッピーな人生が送れるはずだ。

年齢も関係ない。年齢はあくまでも「頑固になりやすい傾向」と相関関係にあるだけだ。
たとえばの話。年をとると傾向として筋肉量は落ちてくるだろうが、筋力トレーニングを続ければアスリート並みの肉体を作ることもできるだろう。
(「ボディビルダー 最高齢」で検索してみる?)
心もそれと同じである。「頑固さ」の皮を1枚ずつ剥がしていく。固定観念を剥ぎ取っていく作業によって「変化しやすい状態」に戻ることができる。

マインドセットをしなやかに保つ。
この考え方を教えてくれたのは「マインドセット」という名前の本だった。




ちなみに日本では「GRIT やり抜く力」がロングセラーになっているみたいだが、Amazon.com ではこの「マインドセット」のレビュー数は群を抜いていて、2000件近くのレビューがついている。しかも評価は4.5。
自分自身もこれが本当に重要な書だと感じていたが、実際に世間的にもそうなのだと分かった。






全人類必読の書ではないか、ぐらいに思っている。

2016年12月3日土曜日

英語学習は学習方法自体の勉強である

英語を勉強するのは脳のトレーニングにもなるということに気付いた。

Kindleで読んだことのない英語の本を買い、同じ本の音声版をAudibleで買う。
そして音声を聞きながら本を読んでいる。

これは最近始めたメソッドで、すごく良い。
自分で音読するのも良いけれど、声がものすごく枯れるから、この方法に切り替えた。

こうやって本を読みながらでも、意識の持ち方によって、まったく感覚は変わってくる。
ただ流しながら読むのか、それとも「理解しよう」と思いながら読むのか。

分からない英語を「理解しよう」と思いながら読んでいると、脳の特定の部位が活性化する気がする。
あとは「この単語、どういう意味だろう」と考え続けて、最後に辞書を引くのは「予測」の訓練にもなる。

このように、英語の本を読むのでも、脳をどう働かせるかによって、まったく楽しさは変わってくる。
けっこう気持ちとしてはハードな部分もあるけれど、ゲームとして楽しむことができる。
エリクソンが言う「限界的練習」にちょっと近いことをしている感じになる。

英語を流し読みするほうが簡単だ。特に言葉の意味なんか考えず、ただ目で文章を追うだけ。
これを続けても、きっと時間をかければ、英語が読めるようになっていくだろう。
だけどこれはいささか退屈で、なんだか飽きてしまう。

逆に自分の脳の働きに注目しながら英語を読むのは、ハードな反面、ものすごく面白い。
「なんで脳を頑張らせなきゃならないんだ」と思って逃げたくなる反面、すごくやりがいがある。

英語を読むのも、勉強するのも、単に量的な単純作業と考えるんじゃなくて。
学習のプロセス自体にゲーム性があり、学習方法自体を学んでいるのだと考えれば、それはすごくやりがいがあることだ。
英語の勉強をしているようであって、実は学習方法の学習をしていて、自分の脳を鍛えているのだ。
そのおまけとして、英語もうまくなることができて一石二鳥という感じ。

今までは英語の勉強をする時は「日本語で読んだほうがもっと速く理解できるのに」とか「もっと他に学習して、基本的な能力を伸ばしたいのに」とか、なんとなく時間の無駄をしているような感覚もあったのだけれど。
英語学習自体が、能力学習であり、学習方法自体の学習だと考えることで、ものすごくモチベーションが湧きそうだ!

なぜならそもそも僕が英語学種を始めたのも「分からないことが分かるようになる」「知らない世界を見られるようになる」という、自己開発的な同期が大きかった。
すっかりそれを忘れていたような気がする。

ところで、これは名著「フロー」に書かれているようなことだが。
難易度の設定は高すぎてもやめてしまうし、易しすぎても飽きてしまう。
「ちょうどいい難易度設定」は、学習にはすごく良い。
「ちょうどいい難易度設定」がスムーズにできるようになれば、それはすごい技術だ。
学習の一生手放せない、ベースの技術になることだろう。


ライフスタイルは変わる。

ビールが好きでダースで家に買い込んだ。
だがカロリーを気にしてハイボール派になった。

休日の昼に腹が減ってフラフラするので、カロリーメイトを買い込んだ。
だが糖質制限を始めて不要になった。ぜんぶ人にあげた。

PCの外付けキーボードで、本当に打鍵感の良い高級なやつを家用、会社用とそろえた。マウスも良いやつを。
だが内臓キーボード派になって、どちらも使わなくなり、Amazonで売った。

アロマキャンドルを買って、少しでも部屋でリラックスしようとした。
だが瞑想を始めて心身がリラックスするようになり、香りは必要なくなった。

問題が変わればライフスタイルも変わる。
過去の予想よりも常に変化は大きい。

2016年11月27日日曜日

糖質制限食をコンビニで買い込んだ

今日はまた、お試しも兼ねてコンビニで一気に糖質制限食を買った。


6P プロセスチーズ
カマンベール 6Pチーズ
キャンディ型チーズ (甘くない)
ミックスナッツ
ブランビスケット (糖質が低い)
クリームチーズ系の6Pフルーツチーズ (糖質が低い)
サラダチキン スモーク味

これで1800円ぐらい。
これが二日はもつかと思いきや、1日でほとんど食べきってしまった。

これは、けっこうな金がかかるな。
昼食もあわあせると、1日の食費が2500円オーバーした。
特にカマンベールチーズが高くて、6Pで500円。1ピースあたり80円もする。

糖質制限食では、肉やチーズはどれだけ食べても良いという自由があるために、際限なくチーズを平らげてしまった。
ミックスナッツをよく噛んで食べる甘さも素晴らしい。
甘いやつ二つはどうしても食べたかった嗜好品だ。

だが今思えば、ちゃんと夜も定食屋に出かけて行って、普通の食事をした方が安く済んだはずだった。満足度も高かったはずだ。
まあ、ポテチやチョコレートを買い込んですべて平らげてしまうよりは、100倍もましだろうけれど。

どうも自分の場合、昔から「食べずに残しておく」というのが出来ない。
買って部屋に置いたものはだいたい、その日のうちにすべて平らげてしまう。
「間食のための糖質制限食」をコンビニで買い込んでも、ほとんど1日で食べきってしまうから、まったく間食にならない。

今回はコンビニで糖質制限食を買うという実験だったけれど、
今後は間食を買いこまずに、ちゃんと毎日の食事で栄養をとって、その上でどうしても口寂しい場合にだけ、何かを買って帰るようにしたい。

ストレスをかけすぎても、金をかけすぎても食事法は続かないと思うからだ。

しかし思うことは、無限にミックスナッツとチーズが食べられる世界に行ってみたい。。


[糖質制限] 「食事の後に眠くならない」って体で実感した。

低糖質な食事をすると、食後の眠気がない。
もうひとつは気分の落ち込みがない。

いままでは食事をすると、必ず気分の落ち込みを感じていた。
頭の中でなんとなくネガティブなことを考えては「ああそうか。これは食後の満腹感のせいだ」と考えていた。実際にそれは事実だった。
食後にはネガティブな考えに陥ったり、眠くなったり、無気力になったりする自分の状態には気付いていた。
悪い時には、それが癖になって食事の一口目から猛烈な眠気を感じているような状態だった。

だが低糖質の食事をすると、まったくそんなことがなくなってしまった。
食後に、腹は満たされているのだが、ぜんぜん気分が落ち込まないのだ。
「ダウン」の理由は、食事そのもののせいじゃない。糖質だったんだと、知識としては知っていたけれど、体で実感した。

ところで、今まで僕は甘いものにあまり興味がなかったのだけれど。
いざ低糖質ダイエットを始めると、逆に「甘いもの」にも関心が向いてしまっている。
コンビニに行くと甘いもののコーナーの前で足が止まる。
「我慢しなければいけない」と思うと、逆に欲しくなる。これがダイエットのパラドックスだ。

だけど自分に抑圧を与えるのが、一番よろしくない。
重要なのは我慢ではなく「理解」だ。
糖質を口に放り込むことのデメリット、そして、糖質を減らすことのメリットを心から理解して、感じ取りたい。

たとえばローソンの低糖質系のお菓子だって、1袋で「ブラックサンダー1個」よりも糖質が低かったりするんだから、もし甘いものが欲しくなったら、我慢せずに食べてみたらいいと思う。
(本当はローソンの「ブランパン」をいつでも間食にしたいのだが、たまに店頭で売り切れていることがある。。。)

あとは、1回1回の食事に対して、積極的に感謝の心を湧き起こして「ちゃんと満足した」という気持ちに浸るのが良いだろう。



2016年11月26日土曜日

「意識高い系」という不思議な言葉のロジック

「意識高い系」という言葉がある。不思議な言葉だ。

意識が高いのは良いことなのか、悪いことなのか。
考えても、まるで正解は出ないように思える。

こうして「意識高い系とはなんなのか」という定義が、世の中にいくつも生まれることになった。

だが、正解が見つからないように思える問題には、「ロジックの破綻」が潜んでいるのが常だ。
つまり問題提起が間違っているから、正解も見つからないということだ。

意識が高いのはよろしいことなのだろうか。
ネットの世界で「意識高い系」は笑われている。
だがそもそも「意識が高い」というのは、どういうことなのか。

「意識が高い」という言葉には、
「意識が高い=価値が高い」
「意識が低い=価値が低い」
といったニュアンスが感じられる。

たとえば自宅に帰っても仕事の勉強をするのが「意識が高い」とする。
だけどそれはすべて「自分のためにやっていること」だ。
たとえば出版される本の中から毎月何冊かを買って、最新の情報を得ているとする。
だけどそれも「自分のためにやっていること」だ。

たとえば趣味がゲームでも、自己啓発でも、座禅でも、パチンコでも、剣道でも、ボルダリングでも。
それ自身に「価値」の高低はない。
なぜなら趣味というのは「自分が好きでやること」だからだ。

たとえば仕事で自分のキャリアを作るにしても、
キャリアを作るのが意識が高くて、作らないのが意識が低い、ということではない。
なぜなら仕事のキャリア作りも、自分のためにやったり、やらなかったりすることだからだ。

「自分のためにやること」に価値の高い低いは存在しない。
つまり「どちらが意識が高くて、どちらが意識が低いか」という区切りはまるで意味がない。

意識が高くても低くても、どちらにしても求める先は「自分にとっての理想」なのだから。
その理想に今の行動がフィットしているかどうかだけが重要になる。

つまり「意識高い系」という言葉は、
まず世界を「意識が高い人」と「意識が低い人」に隔てておいて、その上で低い側を笑ったり、高い側を嘲ったりという、はるか昔から繰り広げられている「世界を二分して手を作り上げる」というゲームに過ぎないのだ。これがロジックの罠だ。
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ローソンのブランパンの満足度がすごい。

ローソンのブランパンの満足度がすごい。

ブランパン2個セットを食べると130kcalぐらい。
だけどこれが、あんぱん1個=300kcalを食べるよりも満足度が高い。腹が満たされた感じがする。
カロリーは低く、低糖質で、高タンパクだ。
糖質によって眠くならないのも良い。

今では良いのか悪いのか分からないが、小腹が空いたらとりあえず街でローソンを探す体になってしまった。
(人生ではじめて「コンビニの系列の違い」を明確に意識した)

ところで、最初にローソンでブランパンの成分を見たときは「嘘だろ」と思った。
パンなのに、ここまでタンパク質の量が多いわけはない。何かの間違えではないかと考えた。

同じくローソンに、それこそタンパク質の塊である「サラダチキン」も売っているが、小腹が空いたときにこれを食べるわけにはいかない。
パッケージは開けにくいし、手はベタベタするだろうし、何より味気ない。
どうしても「我慢して食べている感」が出てしまうだろう。
そもそも気軽に外で食べる用途として作られていないのだから、当たり前だ。

けれどこのブランパンは、パッケージを開けてすぐに、いつでもどこでも食べることができる。
手も汚れないし、値段も安いし、個人的には飽きのこない味だと思っている。

カロリー的に言っても、たとえばチョコレートの「ブラックサンダー」をひとつ食べるだけで100kcalは行ってしまうのだ。
それに比べると、この満足度で130kcalというのは驚異的な低カロリーだ。
「ブラックサンダー」であればひょいひょいと5個ぐらい続けて食べることも出来るだろうが、ブランパンを五個(5包x2)も食べたら、もう腹は一杯になるだろう。

こうやって二週間前から、糖質制限にかなりはまりかけている俺だ。
これが一時の流行ではなくて、本当に人類にとって理想の食事法だという考えのもとに、実践している。

今までは1日1食を実践したりしていたが、やはり空腹時はフラフラになったり、今考えてみると弊害も出ていた。
体つきもちゃんと引き締まって痩せているのではなく、なんとなく腹の辺りだけだらしない感じになっていた気もする。

食事法に関しては本当に数多の情報が出回っていて、真実がどれなのかは誰にも分からないかもしれない。
だけど糖質制限に関しては、書籍を読んでいると、他の食事法よりも明確な理論、納得できる理屈に基づいて構成されていると感じた。
世間一般的な「イメージ」ともかなり異なる部分があった。

自分の今までの食事法も、決して完全に否定するわけではない。
だけど「今まで続けてきたから」というだけの惰性にとらわれずに、自分の食事に関して真剣に考えて、実践してみる。

何より糖質制限を始めてから、なんとなく自分の体がエネルギーに満ちてきているように感じる。

シュラスコは食べ方のメソッドである

会社の懇親会でシュラスコを食べに行った。
これがあまりにも美味くて感動した。

テーブルまで温かい肉のかたまりをウェイターが運んできて、それを切り落とし、皿に盛って、すぐに食べるのだ。

「シュラスコの良さ」というのがメニューに書かれていた。
キッチンからテーブルに運ぶまでの距離さえも短縮して、本当に出来たての、美味い状態で肉を食べるための手法なのだ。

ゲストがいかにして美味く肉を食べられるか、を追求した手法。
つまりシュラスコというのは「食べ物の種類」ではなくて「食べ方のメソッド」なのである。

由来が本当にそうかどうかは知らないが、結果的にその役目を果たしている。
俺はシュラスコが好きになった。プライベートでもまた食べに行きたい。




2016年11月25日金曜日

肉食は太らない?

昨日はランチにシュラスコを死ぬほど食べた。よほどのカロリーを摂取した。
だが今朝起きてみると、意外にも腹はすっきりとしている。

この現象は以前にもあって、焼肉を山ほど食べた次の日は、思ったよりも腹がスマートだ。

逆に、1日で野菜スープしか飲んでいないのに、腹のゆるみが取れなかったり。
人体は不思議。。。というか、もっと栄養学、食事学に詳しくなる必要がありそうだ。
ぜんぜん食べ物のことについて分かっていない。

焼いただけの肉を食べるっていうのは、やはり太らない方法なのかもしれない。
あとは「昼をちゃんと食べる」ということは大事かもしれない。

ところで、自分が低糖質ダイエットをしていると他の人に言うと、必ず「そんなの、する必要がないでしょ!」と返ってくるが、これは逆説だ。
「痩せているから気をつける必要がない」んじゃなくて「気をつけているから痩せている」のだけれど。

自分は顔が細いから体もガリガリに見られがち。しかし太ろうとしても顔に肉がつくのではなく、まず腹についてくるから、単純に自分の体が嫌になってしまう。


2016年11月23日水曜日

英語学習 | オーディオブック+テキストでの読書が最強すぎる話

瞑想関係の本「JOY ON DEMAND」を英語版で読んでいる。
それと同時に iBooks でも音声版をダウンロードして、

この方法で本を読んでいると、本当によく頭に入ってくるし、読むこと自体もすごく楽だ。
なぜなら自分で本を読み進めようとしなくても、次から次へとナレーターが読んでくれて、自然に自分も文章を目で追うことになるからだ。

テキストだけで読む場合の4倍ぐらい頭に入ってくるし、4倍ぐらい長い時間、読書を続けられる感じがする。4x4=16倍だ!

ちなみにこの本は、

- とても平易な英語で書かれている
- 今まで瞑想関係の本をいくつか読んできたので、自分がこの分野に詳しい
- 同じ著者の本を読んだことがある

という好条件が揃っていて、内容がよく理解できた。
日本語版を買う必要がないなと思った。

自分にとって読みやすい条件が揃っているにせよ「あ、英語を普通に読めている」という感覚があって、とても心地良い。
「音声」+「目での読書」ってすごいと思った。
(前は音読にも挑戦したのだけど、とにかく声が枯れるのでやめてしまった)

これは英語教材より良い気がする。
なぜなら「興味」というのはすごいエネルギーを持っていて「自分の興味のある分野の本を読む」のが吸収率は一番だと思うからだ。
ちなみに、テキストとオーディオブック、両方が出版されているものをまず探す、という必要はある。


これが、次の条件でも読めるようになっていけたら、上達だ。

- 難しめの英語で書かれている
- 自分が詳しくない分野の本を読む
- 音声なしで文章だけで読む



お金を使うか勇気を使うか

僕は最近「勇気が必要なこと」にチャレンジしようとしている。
準備を念入りにして、テンションが高い日は、それをすることが出来た。
だけど日々、自分にいい訳をしては、なんとなくそれをやらずに終えてしまう。

勇気が出なかったり、疲れていると言い訳をしたり、ただなんとなく先延ばしにしたり。
そんなことを繰り返していると、人生の日々は過ぎていってしまう。
無限にも思える日々は、実は無限ではなく。もしかしたら今日が、人生最後の日にならないとも限らないのに。

人間にはだいたい80年もの年月が与えられているから、ダラダラと過ごしていても、すぐにお咎めを与えられることもない。
なんて甘やかされた環境なのだろう。

世の中には「やるのが簡単だけど、競争相手が多いもの」と「やるのが難しいけれど、競争相手が少ないもの」があると思う。
お金を使えば簡単だけど、タダでやるのは難しいことがある。
お金を使うか、労力を使うか、それとも知恵や勇気を使うか。

たとえば人にプレゼントをあげる時でも、お金を使わずに相手を楽しませようと思ったら、知恵や工夫が必要だ。

最近思うのは、お金を使うのはすごく簡単だということ。
だけどお金を使って楽をしていてばかりでは、まず貯金はたまらないし、自分の実力も磨かれていかない。

「自分を甘やかしたくない」そして「勇気が出ない」との間で、揺れ動いて、結局何もしていない、この頃。


2016年11月20日日曜日

自分への投資が上手 or 下手

自分が買うものは、ほとんどすべてが、投資だと思って買っている。

定食屋さんで栄養のある食事を食べるのは、健康に対する投資。
コンビニでサラダを買うのも、健康への投資。
高級な外付けキーボードを買うのは、快適な仕事に対する投資。
Kindleで本をダウンロードするにしても。知識に対する投資だ。
引っ越しをしたのも、ライフスタイルに対する投資だ。
ブログ用にドメインを10年契約するのも、記事を書くモチベーションと、ウェブ上の財産に対する投資だ。

浪費ということは基本的にはしない。娯楽と言えば漫画ぐらいだろうか。

ただ、この投資が上手いか、下手かというと、下手な部分がたくさんある。
つい「本をたくさん読めば賢くなるだろう」と考えて、ざくざくダウンロードしてしまって読まなかったりする。

たとえば、フットマッサージャーを、快適な毎日への投資だと思って買ってはみたが。
瞑想を始めたら、そこまで体が疲れなくなって、不要になったりした。
高級な外付けキーボードも、今ではノートPCの内臓キーボードの方が快適になってきて、Amazonで売却したりした。
速聴をのために速聴用のソフトを購入したけど、やめてしまったり。
そういうことはザラにある。

もっと上手に投資したい。無駄なお金を使いたくない。お金をロストするたびにそう思う。
「来月こそはお金を節約しよう」と思うけれど、ついつい投資の名目の下に使いすぎてしまう。

だけど投資というのは、ある程度、お金を使ってみなければ分からない部分がある。
ライフスタイルは刻々と変化していくから、必要になるものもあれば、不要になるものもあるだろう。
そしてお金を使う前に考えすぎていたら、なかなか踏み切れずに、お金よりも大事な「やりたいこと」や「時間」をロストする羽目になりかねない。

たとえばKindleの本だって、本当に必要だと思う時に買うからこそ、身にしみて内容が理解できる。
いまこの記事を書いているMacBookだって、そこまで悩まずに、本当に必要だと思ったからサクッと購入した。
そして、今本当にこいつが役立っていると思っている。
たとえば、iPad Mini4を買ったことによって、指紋認証で簡単にタブレットを開けるようになり、電子書籍を読む機会が激増し、生活のスタイルも大きく変わった。

だけどもう少し賢くなれるとすれば、すべての投資の前に、衝動ではなくて「もう少しだけ時間をかけて下調べすること」「生活に対するシミュレーションを描くこと」をしてみても良いだろう。
投資を制限しない範囲で「それは、本当に必要か?」「もっと良いもの、方法があるんじゃないか?」と、自分にあと数回問いかけてみても良いだろう。



2016年4月16日土曜日

僕が引っ越しを含めてライフハックに200万円使った内訳を公開

ここ3ヶ月で200万円使いました。
すべては「毎日をストレスなく、楽しく過ごせるように」「仕事でパフォーマンスを発揮できるように」するためです。

- 会社の近くへの引っ越し : 50万円

- マッサージチェア : 35万円
- マッサージ枕 :  3万円
- 各種マッサージグッズ : 2万円
- フットマッサージャーx2 : 12万円

- SIM フリー iphone 6S  (+ケースとフィルム) : 12万円
- ipad mini 4  (+ケースとフィルム) : 7万円
- kindle voyage (+ケースとフィルム) : 2万円

- mac book air : 12万円
- PC用 キーボード : 6万円
- PC用 マウスx2 : 2万円

- PlayStation 4 : 4万円
- nasne : 2万円

- シアターバー : 5万円
- シャワーヘッド : 2万円
- ステンレスのゴミ箱 : 2万円
- 部屋の照明(24段階調整) : 5万円
- 新しいエアコン : 7万円

- ソファ : 10万円 (予定)
- 高反発マット : 10万円 (予定)

( * x2 と書いてあるのは、自宅用と会社用の両方を買ったやつです。 )

これで約200万円ほど。

これだけ書くと「贅沢」してるように見えるかもしれませんが。
自分にとって「毎日を楽しく過ごす」ということは切実で、お金を使っても惜しくないと思っています。消費でもありますが、投資でもあります。

そして結局はお金を節約したり、もっと稼げるようになる可能性があります。

たとえばですが「エアコン」は。
引っ越し最初に備え付けられていたものは、古くて暖まりが悪いものでした
なので自費で買い換えました。

古いエアコンを使い続けていると「風邪」をひいてしまう可能性が高まります。
風邪をひいてしまうと仕事を休むことになり、有給休暇を消費します。
有給が残っていなければ、たとえば3日休んで数万円を失うことになります。

それを考えればエアコンを自費で買い換えるのは「安い」ことです。

このように、すべて理由があって「投資」としてライフハックグッズを買い揃えました。
それぞれの詳しい内訳についてはまた書くかもしれません。


余談。
おかげで、8年ぶりにクレジットカードのショッピング枠が20万円増えました。



ライフハック | シャンプー / コンディショナーで詰め替え用を買ってはいけない理由

理由。詰め替えって本当に面倒くさくない?

僕は、シャンプー、コンディショナーは必ず普通の「ボトルつき」を買う。

これが「最小のライフハック」だ。
金額とか、大小とかは関係ない。

自分が「シャンプーの詰め替え用を、いかに面倒だと感じて、先送りにしているか」に敏感になれば、意外とこのコストは大きいということがわかる。

たとえば僕の場合、シャンプーが残り少なくなってきた時に。
「詰め替えが面倒だな」と思って先送りにする回数は、10回を軽く超える。「心で思った回数」でカウントする。
ここで費やす心のエネルギーは馬鹿にならないと思っている。


環境に悪い? 大丈夫。人間は他にも、膨大に環境に悪いことをしている。環境のことを考えるなら、何か他の寄与をした方が良い。

値段が高い? これはトレードオフの問題。
「シャンプーの詰め替えをしなくて良い」ということのために、月に100円多く払えるかどうか。僕は喜んで払う。

Twitter と Blogger の連携

どうやらFeedbunnerの設定を最後に「有効」にしなければ使えないらしい。

参考記事: http://www.blogger-customize.com/2013/12/twitter.html

ということで再テスト。

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追記:

できた。



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Blogger って mac の 「Command+V で画像貼り付け」に対応していないのか。。。
画像が思うように使えないと辛そうだな。

Twitter と連携してみる

ブログ投稿においては。
キーボードショートカットは諦めて、マウス操作もせざるをえない、ということを基本に投稿していった方が良いだろうな。

無理にキーボードだけで操作しようとすると、無理がくる。

この記事を参考にTwitterと連携してみる。
http://www.blogger-customize.com/2013/12/twitter.html

ということでテスト。

Blog 全般のインターフェイスには全く納得していない

タイトルを入力する→本文を入力する→投稿する

この流れがキーボードだけでスムーズにできない。
投稿しやすそうなBloggerでさえショートカットが見つからない。
(少なくとも簡単には見つからない)

Twitterなら全てがショートカットでスムーズに完了できる。

Blogは歴史も長いのにインターフェイスで一番肝心なところが不足している気がする。

おそらくは Blog を書く人というのは、スピーディーな投稿や、スピーディーなショートカットにはあまり関心がなくて。
じっくり長文を書く人が多いからこうなっているんだろう。

だけどもう少しBlogのインターフェイスがインスタントなら。
たとえばTwitterに移動した人口の1/3ぐらいは、カバーできていたんじゃないだろうか。

インターフェイスが比較的優れているこのBloggerでさえ。
Ctrl+Enterを押しても投稿できない。

「更新」ボタンにマウスを当ててもショートカットキーを教えてくれたりはしない。
ここが良くなればBlogを二倍は愛せると思うのだけれど。

初投稿

常に三日しか続いてない。日記を書いてみる。
ツイッターなら続くんだけどな。

ブログの何が嫌かというと。タイトルを書かないと投稿できないところだ。
自動的に本文の1行目をタイトルにしてくれたら良いのに。

そういうブログはないんだろうか。