2016年12月19日月曜日

僕は、軽度のはまり症だ。

たとえば、僕が瞑想を始めたとき。
生きる目的は瞑想による、精神の開拓になった。
これをライフワークとして、少しでも無我の境地にたどり着きたいと思った。
土日も何の予定も入れずに、ただひたすら坐っていたくなった。
瞑想をしていない時間のすべてが無駄にさえ思えていた。

たとえば、仕事にはまる。
夜はスタジオから誰もいなくなるまで残っていたくなった。
なぜ毎日が仕事じゃないんだろう。土日なんかなくなってほしいと願った。

たとえば、実用書を読むことにはまった時。
文字を追うことで脳にエンドルフィンが出っぱなしになった。
本を一冊買うごとに、自分が改善されていく感覚を覚えた。
そうしてkindleの購入ボタンを押し続けた。

たとえば、音楽が素晴らしいと感じた時。
CDから落としてきたWAVE音源じゃないと満足できなくなった。
いつかは最高のオーディオ環境がほしいと思った。
仕事中にもひたすら片耳で音楽を聴き続けた。

たとえば、人と話すことにはまったとき。
1日も暇な日を作りたくなくなった。
BARに通っていた時は、他の常連さんよりも1日でも多く通いつめようと思った。

たとえば、糖質制限を始めたとき。
頭の中はいかにタンパク質のあるものを食べるかでいっぱいになった。
チーズを一口食べるたびに、自分が良くなっていくような錯覚に陥った。

こういうことを、たとえば1ヶ月ごとに繰り返したりする。
そして、大袈裟に言うのならば。そのたびに「これこそが生きる目的だ」という仮定をするのだ。
客観的に見れば、なんとも目標の定まらない状態だと思えるかもしれない。

だけど、これは悪いことなのだろうか?
人生の方針をたびたび変えることは「ブレる」ことなのだろうか。
だけど、僕はそんなに悪いことじゃないと思っている。

いちど「はまって」それからバランスを取って「少し戻る」。
そうして、思い出した時にまた「はまる」。

たとえば逆に、瞑想にはまることもなく、読書にはまることもなく、ただただ過ぎていく時間よりも。
瞑想を覚えて、読書で色々なことを覚えて、そして少しずつだけ「バージョンアップ」を繰り返して、少しずつ良い自分になっていく方が、ずっと人生は楽しいはずだ。
結果的に、自分をひとつの場所に固定させない。
螺旋を描くように、そのときどきで必要なものが目の前に現れる。そいつをちゃんと掴まえる。

よく言えば、過去にとらわれない。
時間というものは、予想以上に自分の環境を変えて、また別のものが必要になる。
たとえ過去にどんなにはまっていたものでも、いま必要でないならば、やらない。
いちど価値があると認めたものだから、心ゆくまで付き合うけれど、もう味がしなくなっているのに、かみ続けることはやめる。
だから、ほんとうに今必要な、新鮮さを感じる、新しいことを見つけにいく。

ところで僕はこのまま、多くの人と同じように、もしかしたら、人生にものすごく大きな目標は持たずに生きてゆくかもしれない。(持つかもしれないけれど)
だけど、それでも毎日を楽しく生きるために、自分を固定させずにいるのは、心地よいことだ。
過去に重要だったものを、まるで状況が変わってまで、重要だと思い込まないこと。
だけど、目の前に現れた「重要なもの」はちゃんと掴んで、大事に扱うこと。

僕はもっと自分に正直になりたい。
決して常に気をうつろわせておきたいわけじゃない。
ひとつのことにはまり込むことは、面白いことだ。
そして、重要でなくなった時に、それを手放すことも。

人生のいろいろな面を味わいたい。
昨日楽しかったことは、今日は楽しくないかもしれない。
昨日美味かったコーヒーも、今日は美味しく感じないかもしれない。
僕らは、今日のパンには今日のジャムを塗ろうじゃないか。

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