2016年12月30日金曜日

コミュニケーションは人を理解するための手段だ

コミュニケーションというのは本当に奥が深い。
どこにも正解は存在しないような気がするし、実際に存在しないのだと思う。


たとえば二人の人間が話し合うとしたら、僕が理想とするコミュニケーションは、次のとおりだ。

- 普段するような他愛のない雑談ではなくて、もっと人生や、物事の本質を洞察するものであること。
- 会話の中から何らかの哲学を引き出せること。
- これは大げさな言い方かも知れないが、話が終わった後は、お互いに人間として少し成長していること。

コミュニケーションもそういうものであってほしい。


ただの雑談というものは、本当に退屈だ。
最近のドラマや、芸能人の話なんかどうでもいい。
これは恐らく、こういった本質的に退屈なのではなくて、単に僕が興味がないだけだ。
たとえば僕は瞑想に興味があるから、その話であれば楽しむことが出来るだろう。

だから、お互いに興味がある分野の話は、面白い。
きっと会話は盛り上がるはずだ。
興味の対象が同じだということは、素晴らしいことだ。
共通点があるからこそ、会話は素晴らしいものになる。


だが、本当にそうだろうか?


たとえお互いに興味のある分野の話が出来たとしても、それがただの情報交換、意見の交換、熱量の交換に終わるとしたら、一見結意義な話をしているようであって、実際には何もしていないのではないだろうか。
それは、お互いという人間を少しも理解していないからだ。


コミュニケーションが、ただの口を動かす運動だと、無意識に考えている人もいる。
コミュニケーションが、ただ自分が話しまくって、気分を晴らすことだと思っている人もいる。
コミュニケーションは、人の話をよく聞くことだと考えている人もいる。

だがコミュニケーションというのは、お互いという人間を、少しでも理解するための手段だと僕は思う。
会話によって相手を理解し、相手を理解することによって自分も理解する。そして人間として一歩前進するというのが、僕にとって理想のコミュニケーションだ。

そういう意味で、多くの人と同じように、僕はコミュニケーションがすごく下手だ。
こう考えると、僕らの人生は長くても、どれだけ普段人と「コミュニケーション出来ていない」ことだろう。


人生が終わるまでに、あと少しでも、人と分かり合えますように。

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