英語を勉強するのは脳のトレーニングにもなるということに気付いた。
Kindleで読んだことのない英語の本を買い、同じ本の音声版をAudibleで買う。
そして音声を聞きながら本を読んでいる。
これは最近始めたメソッドで、すごく良い。
自分で音読するのも良いけれど、声がものすごく枯れるから、この方法に切り替えた。
こうやって本を読みながらでも、意識の持ち方によって、まったく感覚は変わってくる。
ただ流しながら読むのか、それとも「理解しよう」と思いながら読むのか。
分からない英語を「理解しよう」と思いながら読んでいると、脳の特定の部位が活性化する気がする。
あとは「この単語、どういう意味だろう」と考え続けて、最後に辞書を引くのは「予測」の訓練にもなる。
このように、英語の本を読むのでも、脳をどう働かせるかによって、まったく楽しさは変わってくる。
けっこう気持ちとしてはハードな部分もあるけれど、ゲームとして楽しむことができる。
エリクソンが言う「限界的練習」にちょっと近いことをしている感じになる。
英語を流し読みするほうが簡単だ。特に言葉の意味なんか考えず、ただ目で文章を追うだけ。
これを続けても、きっと時間をかければ、英語が読めるようになっていくだろう。
だけどこれはいささか退屈で、なんだか飽きてしまう。
逆に自分の脳の働きに注目しながら英語を読むのは、ハードな反面、ものすごく面白い。
「なんで脳を頑張らせなきゃならないんだ」と思って逃げたくなる反面、すごくやりがいがある。
英語を読むのも、勉強するのも、単に量的な単純作業と考えるんじゃなくて。
学習のプロセス自体にゲーム性があり、学習方法自体を学んでいるのだと考えれば、それはすごくやりがいがあることだ。
英語の勉強をしているようであって、実は学習方法の学習をしていて、自分の脳を鍛えているのだ。
そのおまけとして、英語もうまくなることができて一石二鳥という感じ。
今までは英語の勉強をする時は「日本語で読んだほうがもっと速く理解できるのに」とか「もっと他に学習して、基本的な能力を伸ばしたいのに」とか、なんとなく時間の無駄をしているような感覚もあったのだけれど。
英語学習自体が、能力学習であり、学習方法自体の学習だと考えることで、ものすごくモチベーションが湧きそうだ!
なぜならそもそも僕が英語学種を始めたのも「分からないことが分かるようになる」「知らない世界を見られるようになる」という、自己開発的な同期が大きかった。
すっかりそれを忘れていたような気がする。
ところで、これは名著「フロー」に書かれているようなことだが。
難易度の設定は高すぎてもやめてしまうし、易しすぎても飽きてしまう。
「ちょうどいい難易度設定」は、学習にはすごく良い。
「ちょうどいい難易度設定」がスムーズにできるようになれば、それはすごい技術だ。
学習の一生手放せない、ベースの技術になることだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿