2016年11月26日土曜日

「意識高い系」という不思議な言葉のロジック

「意識高い系」という言葉がある。不思議な言葉だ。

意識が高いのは良いことなのか、悪いことなのか。
考えても、まるで正解は出ないように思える。

こうして「意識高い系とはなんなのか」という定義が、世の中にいくつも生まれることになった。

だが、正解が見つからないように思える問題には、「ロジックの破綻」が潜んでいるのが常だ。
つまり問題提起が間違っているから、正解も見つからないということだ。

意識が高いのはよろしいことなのだろうか。
ネットの世界で「意識高い系」は笑われている。
だがそもそも「意識が高い」というのは、どういうことなのか。

「意識が高い」という言葉には、
「意識が高い=価値が高い」
「意識が低い=価値が低い」
といったニュアンスが感じられる。

たとえば自宅に帰っても仕事の勉強をするのが「意識が高い」とする。
だけどそれはすべて「自分のためにやっていること」だ。
たとえば出版される本の中から毎月何冊かを買って、最新の情報を得ているとする。
だけどそれも「自分のためにやっていること」だ。

たとえば趣味がゲームでも、自己啓発でも、座禅でも、パチンコでも、剣道でも、ボルダリングでも。
それ自身に「価値」の高低はない。
なぜなら趣味というのは「自分が好きでやること」だからだ。

たとえば仕事で自分のキャリアを作るにしても、
キャリアを作るのが意識が高くて、作らないのが意識が低い、ということではない。
なぜなら仕事のキャリア作りも、自分のためにやったり、やらなかったりすることだからだ。

「自分のためにやること」に価値の高い低いは存在しない。
つまり「どちらが意識が高くて、どちらが意識が低いか」という区切りはまるで意味がない。

意識が高くても低くても、どちらにしても求める先は「自分にとっての理想」なのだから。
その理想に今の行動がフィットしているかどうかだけが重要になる。

つまり「意識高い系」という言葉は、
まず世界を「意識が高い人」と「意識が低い人」に隔てておいて、その上で低い側を笑ったり、高い側を嘲ったりという、はるか昔から繰り広げられている「世界を二分して手を作り上げる」というゲームに過ぎないのだ。これがロジックの罠だ。
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