2017年2月8日水曜日

「良くなる」と「幸福になる」の違い | 「劇的に良くなる」の嘘

「劇的に良くなる」というのは、嘘だ。

僕たちは今までの人生で「これをこうすれば、劇的に良くなる」という謳い文句や、自分自身で生み出した妄想に踊らされてきたんじゃないだろうか。
「この世の中の、どこかにもっと、素晴らしい手法があるはずだ」という期待を、ぼんやりと抱いている。
「黄金のキーさえ見つければ、人生は好転するはずだ」という思惑を、そこらかしこの小さな領域で見つける。
この考えはあまりに無意識下に浸透しているので、自分たちがそう考えていることにすら気付かないほどだ。

だが、淡い期待よりも、事実を考えることが大事だ。よく振り返って、思い出してみてほしい。
今までの人生の中で「劇的に何かが改善したこと」など、果たしていくつあっただろうか?
「劇的に改善したこと」と「劇的には改善しなかったこと」の、一体どちらが多かっただろうか?
(もし前者が多かったというならば、あなたはきっと頭が良い人だ。こんな記事を読む必要はまったくない)

未来に対する期待ではなく、過去の事実から考えてみよう。
多くの場合、僕たちは驚くほどに、ほんの、わずか少しずつしか良くなっていくことが出来ない。
だが僕たちは、その事実を認めることが、どうしても出来ない。
だって、もし人が「大樹のようにしか成長できない」ならば、一体どうやって、この不幸から抜け出して、幸せになれば良いというのだろう?


だがそれと同時に、僕たちは理解していない。
ひとつ言えるのは「劇的に改善するはずだ」という思い込みこそが、本当に有害だということだ。
この世の摂理として、大きく期待すれば、大きく裏切られるのは当たり前の話だ。
だけど僕たちは、まるで一夜漬けをする学生。もしくは、負け続けのギャンブラーみたいだ。
毎回裏切られるために、毎回、物事に大きな期待を抱く。
そして、僕たちの見積もりは、いつも、だいたい、大きく間違っている。
1のものを10の見積もりし、逆に10のものは1だと見積もっている。


僕たちの本能は「短期間で劇的な成果を得ること」を求めようとする。
「獲物が得られるか、それとも、得られないか」。
狩猟民族の本能が刻みつけられているのだろうか?
それともこれは、日常で延々と脳に刷り込まれるTVCM、車内広告、ウェブ広告のせいなのだろうか?


そして、僕たちは「良くなること」は「幸せになれること」だと勘違いしている。
「劇的に良く」なれば「劇的に幸せに」なれると信じ込んでいる。
だけどこれは、ものすごくはまりやすい罠だ。
1+1=2 だと思うだろう? だけど「良さ」と「幸せ」は必ずしもつながっていない。

僕たちの思考の根底には「良くなれるはず」という信条と「良くなれば幸せになれる」という、二段階の思い込みがある。
そして現代においては「良くなることこそが良いことだ」と定義づけられている。
だからこそ「世界を変える」というメッセージを、スティーブ・ジョブズや、他の先鋭的な人が送り続ける。
だけどついに iPhone を手にした人類も、前より幸福になったとは限らない。


「良くなれば幸せになれる」と考えることは
逆に「良くならなければ、幸せになれない」と考えることだ。
だから僕たちは、急に良くなれない自分に焦りを感じるし、もどかしさを抱く。
だがこの二つを分離して考えてみよう。

人は短期間で劇的に良くなることもないし、たとえ劇的に良くなったからといって、劇的に幸せになれるとは限らない。
「二段階の思い込み」によって、僕たちはいつでも幸せに近づきそこねるし、いつでも期待を裏切られてばかりだ。
「成長による幸福の増加度」を「期待を裏切られる不幸の増加度」が、常に上回っている。
だけど僕らは、自分自身の思い込みを捨てるのが癪なので、幻想を持ち続ける。



人の幸福に関しては、必ずと言って良いほど、逆説の力学が働いている。
(もしそうでないのなら、どうしてこれほど多くの人が幸福を掴み損ねているのだろう?)
そのうちのひとつの法則。
「良くなれば、幸福になれる」という思い込みを捨てることで、僕たちはむしろ幸福に近づく。

世間で言われている「成長」のイメージに、大きな価値を置いてしまうのは危険だ。
たとえ、それは1割の部分では当たっていたとしても、残りの9割は過剰な見積もりだからだ。
僕たちは必ず成長するとは限らない。
ただ、自分の心の扱いを、ちょっとだけうまくすることなら出来る。


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