2017年2月3日金曜日

ディスコミュニケーションという和製英語

「人に全く質問をしない人」と、
「(ある種の)人に質問をしすぎる人」の共通点はなんだろう。

どちらと話していても、僕は窮屈さを感じる。
これはバランスの問題ではない。「ほどほどが一番だ」という問題ではないように思う。

僕が感じるのは「自分主体」と「相手主体」という違いだ。

「人に全く質問をしない人」は、相手に関心がない。
だから自分の話ばかりをしたり、押し黙っていたりする。
ある種の「人に質問をしすぎる人」は、相手に関心がない。
「自分の話のスタイル」でコミュニケーション(という名の演説)を進めたいがために、そこに誘導するかのように質問をする。
その証拠に、僕がその質問に答えても、彼の目は泳いでいるし、特に内容を噛み砕いているようには見えない。

話し方のスタイルの違いはともかく、コミュニケーションのあちこちに「自分主体」は隠れている。
これを見つけるたびに、僕は人の会話がすれ違い、理解し合えない悲しさを感じてしまう。
なぜ悲しいかというと、自分も人に話をよく聞いてもらいたいし、理解してもらいたいけれど、そうしてくれる相手は簡単には見つからないと思ってしまうからだ。


自分主体のコミュニケーションの特徴は、たとえば以下の通り。

- 人の話を遮って自分の話を始める。
- 人の話を憶測で理解する。(自分が話を理解していると思いこんでいるから、理解するために考えたり、ちょっと時間をとって想像したり、分からないことを質問したりはしない)
- 自分が興味のない分野の話には全く反応せず、興味のある分野の話に強く反応する。(なぜなら、興味があるのは「話題」であって、いま話している「相手」ではない)


だがそういう僕自身が「相手主体」で話しているかというと、それも違う。
僕は現在「人の話をよく聞くのは良いことだ」「聞き役に回る人のほうが偉い」という価値観を持っているから、逆にそうしない人を見ると腹が立つし、自分が聞き役に回っているのを「価値が高い」と思い込んでいる。
これも「自分主体」のひとつの形態だ。
(話題から気がそれて上の空になっていることも多いし、ちゃんとコミュニケーションに集中できていない)

では、その反対にある「相手主体のコミュニケーション」とはなんだろうか。
それは単に「相手の話をよく聞く」ということだけにはとどまらないように思う。

基本的には相手の話をよく聞いて、噛み砕いて。
分からないことがあれば質問をして。
コミュニケーションが取りにくい相手がいれば、話題を差し出して。
場に話の輪から外れている人がいれば、話の輪に入れてあげて。
場が盛り下がっていれば、温めるような冗談を言って。
いわばサービス精神こそが「相手主体」のコミュニケーションの本質と言えないだろうか。

こう考えると「相手主体」のコミュニケーションはものすごく大変そうに思える。
だがここまで書いておいて、ひとつ思うことは「相手主体」と「自分主体」とは共存できるはずだという実感だ。言葉的には矛盾するが。

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[パターンA] 他者犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 0

[パターンB] 自己犠牲

- 自分を楽しませるレベル: 0
- 相手を楽しませるレベル: 10

[パターンC]

- 自分を楽しませるレベル: 10
- 相手を楽しませるレベル: 10

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このパターンの中であれば、間違いなく[パターンC]を選択したほうが良さそうだということが分かるだろう。



ところで、この話に結論はない。


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