2017年2月1日水曜日

「生まれただけで価値がある」の嘘 (と「生まれただけでは価値がない」の嘘)

「生まれただけで価値がある」
「生まれただけでは価値はない」

この両方の考え方が、世の中にはある。
一体、どちらを信じれば良いのだろう?


そもそも価値とはなんだろう。

「価値がある」と考えるのも、
「価値がない」と考えるのも、
実は「価値を判断していること」には変わりがない。
「物事には、価値の有無がある」という共通のベースの上に築かれている。

この信念は固く、多くの場合、我々は価値の有無によって、その高低によって、物事を判断せざるを得ない。
たとえ「全ての物事には価値がある」「価値のないものはひとつも存在しない」と考えたとしても、それは同じゲームの土台の上で、細かなルールだけを変えようとしているようなものだ。
だが今までと等しく、同じゲームで遊んでいることには変わりがない。
つまり、物事の価値を等しく認めているようであって、「物事に価値が存在する」という共通の土台からは自由ではない。


我々は、あらゆることに関して価値を判断せずにはいられない。
だが判断するからこそ価値が生まれ、そして価値の有無が生じる。
とするならば、もし「価値を判断する」という行為自体がなければ「価値がある」と「価値がない」の両方が、いっぺんに消えてしまうはずだ。


たとえば人生論でいうと、
「生まれただけで価値がある」というのは、確かに尊い考え方だと思う。
「生まれただけでは価値がない」「努力するから価値がある」というのも、悪くない考え方だと思う。
だがもうひとつの選択肢は「価値を判断する」ということ自体のロジックを認識することだ。
これが実在しないゲームだと知りながら、ゲームに乗ったり、降りたりすることだ。

価値自体が空想であると想像してみよう。

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