2017年2月4日土曜日

自分を宇宙人だと思って街を歩いてみよう

僕たちの文化では、当たり前のように、主語は「僕」「私」「俺」などという一人称だ。

だが心の中で「自分」をどう呼ぶかには、法律があるわけではない。
なので「僕」は、主語を変えてみることにした。
心の中で自分を「自分」と呼ぶのではなくて「この個体」と呼ぶことにしてみた。

たとえばコンビニでチョコレートを買いたくなった時、
「ああ、(僕は)チョコレートが食べたい」と考えるのではなくて、
「生命としてのこの個体は、チョコレートを欲しがっている」と考えてみる。
道を歩いていて、荒々しい車が横切った時には、
「この個体は、プレッシャーを感じたようだ」と考えてみる。

もしくは、自分を「宇宙からやって来て、人間にすり替わっているもの」だと想像してみる。
そして宇宙人として「この個体」の欲求や、経験を、傍観者のように観察してみるのだ。
(実は人知れず、この遊びをやっている人は少なくないんじゃないだろうか)


こうやって主語を変えることによって、まったく世界観が違ってくることに気付く。
想像によって、世界の理解はまったく塗り替えてしまうことが出来る。
いままで「僕」が見ていた世界はなんだったのだろう?
「僕」が当たり前のように信じていた「世界」と「僕」とは何だったのだろう?
ひとつだけ言えることは「自分」という執着から離れた世界のほうが、とても清々しく、過ごしやすく思えることだ。


こんなことを書くと、かなり危ない人だと思われるかもしれないが、まさにそのとおりかもしれない。
だが、心の中で考えているだけなら、周りから変な目で見られたりすることもない。
(と、この個体は、社会的な評判を気にかけている)



ちなみに「自分を宇宙人だと想像すること」は、現実ではない。完全な空想だ。
なので「本当は、宇宙人じゃないでしょ?」と誰かに言われたら、脆くもその幻想は崩れ去ってしまうかもしれない。
いや、誰にも言われなくても、自分で勝手に空想から覚める確率のほうがはるかに高いだろう。

「イマジネーション」が生まれた瞬間は世界が変わったように思えても、イマジネーションを続けることは難しい。
なぜなら僕たち(ならびに、僕たちであるところの各個体)は、社会的な洗脳の中に生きているからだ。

だがここでひとつ重要なことは、
「現実」と「空想」がそれぞれ別個に存在するのではないということだ。
なぜなら「現実」も実は「空想」のバリエーションのひとつに過ぎないからだ。

より多くの人が信じている空想が、現実と呼ばれる。
なので「夢から現実に覚める」というのは「ひとつの空想を捨てて、もうひとつの空想を選ぶ」ということに違いない。
我々は常日頃の中から、空想を約束事として生きているのだ。



会社という空想があるから、我々は毎日(たぶん同じ道を通って)出勤する。
だが我々には「平日と休日」という空想もあり、週に2回ほどは、会社に行かない日を過ごす。
貨幣という空想があるから、コンビニでチョコレートを買うことが出来る。
結婚という空想に約束した人は、ひとりの相手と生涯を過ごすこととなる。
離婚という空想に約束した人は、それからはなぜか、その相手と離れて過ごすことになる。

街を歩くと「セブンイレブン」や「ローソン」といった空想が看板を出している。
そのコンビニで働く人は「セブンイレブンの店員」や「ローソンの店員」という空想を共有している。
なのでいきなり「ENEOS」に行って働きだしたりはしない。


こう考えると、我々が「人間の体に乗り移った、宇宙人ではない」ということは、それもまた、ひとつ空想であることに気付く。


たとえば僕(ならびに、この個体)は、会社が空想だと知りながら、来週からも会社に向かうことだろう。
貨幣が空想だと知りながらも、ちゃんとお金を出してチョコレートを買い続けることだろう。
(「貨幣は空想だ!」と叫んで、レジを素通りするようなことはしない)

なぜなら「会社」や「貨幣」などの空想に添って生きるほうが、この個体や、他の個体にとって、幸福な過ごし方が出来る可能性が高いからだ。
「現実が空想である」ということと「それを選ぶ・選ばない」ということは、全く別個の問題だ。
たとえば会社が空想だと気付いても、来週から会社に行かないということは、この個体にとって恐らく不幸なことである。

だが僕が「これら空想に同意して生きる」と共に、「あくまで空想」であることを理解することで、個体としてより「内心の幸福」を担保することが出来ると、僕は考えている。
なぜなら、社会的な空想の共有(ならびに広い意味での洗脳)は、人間全体には寄与しても、必ずしも個体に寄与するとは限らないからだ。



0 件のコメント:

コメントを投稿