2017年2月2日木曜日

評価がないと人間は進歩しない?

評価最小化の戦略。
あらゆる物事に関して、価値の判断を減らしたほうが、個人は幸福な状態に近づく可能性が高いと、私は考える。

だが、ここで重要な問題が生じる。
もし評価するということをまったくやめてしまえば、人間はどうやって進歩すれば良いのだろう?
進歩をやめたら、どうやって人間は良くなれば良いのだろう?

評価を減らすことは本当に良いことなのだろうか?
過ぎたるは及ばざるがごとしで「ほどほどに評価する」ことが良いのだろうか?
「自己評価から解き放たれた人」の方が、結果的に「より成長」できて、「人からの評価も高くなる」から良いのだろうか?

たとえば仕事上の評価を全く気にしない人は、仕事人として成長できるのだろうか?
たとえば家族の評価をまったく気にしない人は、家族を大事に扱えるのだろうか?
たとえば異性の評価をまったく気にしない人は、魅力的な人になれるのだろうか?

たとえば、罪人への評価をやめれば、どうやって彼を裁けば良いのだろう?
たとえば、偉人への評価をやめれば、どうやって彼に学べば良いのだろう?

だからやっぱり「評価は必要だ」。
「評価こそが人間を成長させるんだ」と思うかもしれない。

だがしかし、そのまさに評価こそが、人間を不幸に陥れる最大のファクターなのだ。
ここにパラドックスがある。
評価は劇薬だ。人間の「進歩」には役立つとしても「幸福」に役立つとは限らない。
けれど、我々は「進歩」の果てに「幸福」が存在すると、かたくなに信じている。
もはや「幸福」を捨ててまでも「進歩」しようとしている。


ここにひとつ、別の選択肢がある。
それは、仮に「評価する行為」がゲームだとするならば、
「ゲームだと気づきながら、このゲームで遊ぶ」ということだ。
ゲームを遊ぶ動機は、決してゲームが上手くなってハイスコアを獲ることではない。ゲームを遊びながら、ゲームを楽しむことだ。
(もちろん、ハイスコアを獲ることが楽しくてしょうがないなら、そうすれば良いだろうが)


我々は「評価する」という行為からは完全に自由にはなれない。
仮にたとえ、自分ひとりだけが完全な自由を手にしたとしても、他の人はそうとは限らない。

たとえば家庭を作ることは「良いこと」でも「悪いこと」でもないけれど、あなたの幸福に影響を与えることだろう。
そして家庭を作るには、だいたいの場合、まずは異性からの「評価」が必要だ。
これは「自分が世間の評価から自由である」ことは直接の役には立たない。
ここに「他の人の評価との調整」というベクトルが生じる。

つまり、評価するという行為が、空想上のものであると知りながら、自分の、そして周りの人の幸福に寄与するために、いわば戦略的な行動を取るということだ。

評価をまったく捨ててしまうのは上策ではない。評価と遊ぼう。これはどうせゲームだ。



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