2017年2月5日日曜日

「最後に後悔しないのが良い人生」の嘘

僕たちは、人生を良いものにしたいと考えている。
「悪い人生を送りたい」と考えている人は、ひとりもいない。

だが「良い人生」とは一体なんなのだろうか?

僕たちは「良い人生」を道で見かけることはない。
その影や形を見ることはない。
「いま、良い人生が訪れた」と感じることも、まあ、ほとんどない。
まるで「良い人生」は、架空のどこかの場所に存在するかのようだ。
そもそも、まったくのフィクションなのではないだろうか。

仮に、自分にとって「良い人生」を、一瞬だけ想像できたとしよう。
「こんな生き方が出来たなら、きっと最高だ」という思いが、脳裏をよぎる瞬間があったとしよう。
だがそんな情動は、おそらく瞬く前に終わってしまう。
きっと残りの多くの時間は、雑事や悩みに気を取られたり、他の人間を羨んだりして過ごすことだろう。
そして、時間というものはあまりにも早く流れてゆく。
挽回のチャンスは刻々と失われていき、あなたが「人生を良くするための時間」は、しまいには取れずじまいだ。


人生というものは、時間に依存している。
たとえば、人生の90%が過ぎた頃に「人生を良いものにしたい」と考えても、既に圧倒的な敗北が決まっている。
なぜなら、もし仮に今までの90%が悪いものだったとすれば、残りの10%を良いものであったとしても、人生全体を考えれば敗北ではないか。
残りの10%を良くすることに、一体、何の意味があるだろう。
むしろ、仮に90%が悪いものであったなら、残りの10%も悪いものになる可能性の方がはるかに高い。
僕たちが人生に勝つということは、これほどまでに難しい。


ここで、人生に対して、もうひとつの理解を生み出すことが出来る。
それは「人生の最後に笑って死にたい」というものだ。
人生の中間地点は、言ってみれば、どうでも良い。評価の基準にはならない。
最後の瞬間を心から満足して、後悔なく死ねたなら、それは、きっと良い人生のはずだ。
「死ぬ時に、後悔のない人生」を目指すこと。
「人間にとって最も大事なこと」は、死を考えるからこそ見えてくる。
死を基準に、生を理解する。
これこそが人生の本質であり、究極の人生論だ。

これに気付いた人間は「最後の瞬間」について、ことあるごとに考えるようになる。
もちろん最後の瞬間には、ひとりきりで死にたくはない。家族や友達に囲まれて死にたいと思う。
「やり残したことはひとつもない」「後悔はひとつもない」「完全に満足だ」「全てのことをやりきった」と思いながら死にたい。


だがこの理解にも大きな欠点がある。
そもそも一体どうして「人生の最後」によって、人生の価値が決まるのだろう?
なぜ「途中の地点」は評価の対象にならないのだろうか?
たとえば今日、心から満足して1日を終えても、人生の最後に笑えなかったならば、それは「悪い人生」と評価されるのだろうか?

そして現実問題として「人生の最後に満足しよう」という目標は、功を奏すのだろうか?
今までと同じ、平凡な生き方をしていては「良い人生」を終えられないのではないだろうか?
何も特別なことが起こらない今日は「人生の最後の満足」に寄与するのだろうか?
むしろ遠ざかっているような気がするけれど?


このように「人生の最後」を基準に人生を考えたとしても、それは個人の幸福につながるとは限らない。
「人生の最後」という価値観にとらわれて「今日の日」や「今の瞬間」をないがしろにするとすれば、それはきっと不幸なことだ。

僕たちはそもそも「人生」という価値観に染まりすぎじゃないだろうか。
ひとつの話に、たとえば老人ホームに入った人が後悔するのは「やったことよりも、やらなかったこと」だとか「仕事ばかりで、家族と過ごさなかったことだ」と言われたりする。

こんな話を聞くと、僕は「人生の本質」を教えられたような感じがする。
「今やりたいことをやらないと、最後には後悔するんじゃないだろうか」
「家族や友達を大事にしないと、最後に後悔しそうだ」
と考えて「人生の本質」なるものを、大事にしようと心に誓う。

だけどそもそもの話として、人生の最後に人間が後悔するのも、「良い人生」という概念に、僕らが毒されているせいではないか?
そもそも「人生」という概念自体、僕たちの空想から生まれたフィクションだ。
フィクションを基準にして考えれば、価値の本質は、そのフィクションの体系に依存する。


そして、人の死はいつ訪れるかは分からない。
すべての人が家族に看取られながら、平均寿命ほどまで生きられるとは限らない
もし明日、事故や何かの偶然で死んだなら、きっとあなたは満足など出来ないはずだ。
なぜなら、今日だって自分に満足できていないのだから。
だが、それは果たして「悪い人生」なのだろうか?



僕のススメは「良い人生」というもの自体が、僕らの空想であり、フィクションであると理解することだ。
人には、良い人生も、悪い人生もない。
そもそも「人生」という概念自体が空想であり、僕たちはただ存在するだけだ。

「人生という空想」に取り憑かれるのは不幸だ。
この洗脳を捨ててしまった方が、より幸福度が高く、不幸度の低い過ごし方が出来るだろう。
特に「人生」なんていう、あまり人が気にしないものを、真面目に考えてしまうような人にとっては。


(だけどもし「人生」というフィクションが気に入っているなら、別に無理をして捨てる必要はない。それがあなたにとって、幸福度の高い理解なのかもしれない)

0 件のコメント:

コメントを投稿