2017年2月5日日曜日

僕は音楽が好きだ。というのは嘘だ。 (本当に好きなものは何?)

人の好みは変わる。なぜだろう。

たとえば、僕は音楽が好きだ。これは子供の頃から続いている。だから日頃から音楽を聴き続ける。
僕は最近、歴史を好きになった。そして、歴史をもっと好きになりたいと考えている。
僕は次に、科学を好きになりたい。なので、本屋でやさしい科学の本を探してみる。

「これが好きだ」と言えるものが、1ジャンルでもあれば良い。人生には。
それを自分の軸にする。「好きなもの」を深く掘り下げれば掘り下げるほど、きっと感動は深くなり、目に見えるものは多くなり、人生は少しずつ幸福に近づいてゆくはずだ。


僕には音楽を聴いて、素晴らしい気持ちになれる日がある。
そんな日は「僕は音楽が好きだ」と、改めて気付かされる。
「音楽好き」としての確信を深め、アイデンティティを再確認する。
1日中音楽を聴いて過ごしたいとも考えるし、もっと素晴らしい気持ちになるために、もっと良いオーディオ機器が欲しくなる。
「僕は音楽を聴くために生まれてきたんだ」と考える。
なぜなら音楽が僕を、感動的な気持ちにしてくれるからだ。
もっと音楽と触れ合おう。音楽とともに生きてゆこう、と心に決める。

だけど、その次の日には、まったく同じ音楽を聴いても、同じようには感動できない。
「何かがおかしい」
「何が悪いのだろう。音楽じゃなくて、自分が悪いのかもしれない」
「音楽は、自分の人生に不可欠なもののはずだ」(なぜなら昨日、自分でそう決めたから)
「だからきっと、また同じように、音楽で感動できる瞬間がやってくるはずだ」
「いちど感動できたならば、また同じように感動できるはずだ」
というようなことを考える。

だけど「同じような感動」は、待っても、暮らしても。
いつまでもやって来ずに、僕は音楽からだんだんと愛想を尽かす。
「音楽は僕が考えたような奴じゃなかった」「もっと僕を感動させ続けてくれると思ったのに」「話が違うじゃないか!」と思う。


そして僕は次に「心を感動させてくれるもの」を探す。
街を歩いていると、本屋に平積みされていた「人類の歴史の本」がたまたま目に留まる。

「これは、もしかしたら、僕が本当に探していたものかもしれない」。
そして家に帰ると、Kindleで同じ本をダウンロードする。
幸運にも、その歴史の本は、大当たりだった。
そいつは僕を感動させてくれて、僕は今度は「歴史好きに変わろう」と心に決めることにした。

そう、僕に今まで足りなかったのは、歴史への理解だったのだ。まるで世界が開かれたような感じだ。
「いや、だからといって音楽を捨てる必要はない」
「歴史書を読みながら好きな音楽を聴いたら、人生はもっと素晴らしくなるんじゃないか?」と考えたりする。
「よし歴史の次は、科学だ」「より世界を理解すれば、より素晴らしい休日と、平日がやってくるはずだ」と考える。
こうして僕は音楽好きから、歴史好きになり、そして次には科学好きにもなろうとしている。


このように、世間でジャンル分けされているものに対して「好き」だと表明するのは、とても分りやすい。とても手軽だ。
「僕は音楽が好き」「僕は歴史が好き」「僕は科学が好き」と決めていれば、世間にも説明がしやすい。

事実、音楽は僕という個人にとって、他のジャンルよりも「感動を与えてくれやすい」ということは分かっている。
今までの人生において実証されているのだ。
だけど感動のレベルは日々違うし、多くの場合は「ただ耳に流れているようなもの」として、音は堕落している。
だけど「僕は音楽が好きだ」と決め続けている。ここに深刻な落差が生じる。
「音楽好きな人間」が「音楽で感動できない」のは、何が悪いのだろう。
音楽は悪くない。きっと受け手の側に責任があるはずだ。
そうに決まっているし、そうでないと理屈が合わない。


だけど唐突だが、僕が本当に好きなのは「心が開かれた感じ」なのだと気付いた。
音楽そのものでも、歴史そのものでもないのだ。

「心が開いている感じ」が好きだ。
「心が閉じている感じ」が嫌いだ。

これは「心の感じ」という無形なものであり、簡単には説明できないし、自分自身でも把握が難しい。
別の言葉で表現するならば「世界にアクセスしている感じ」「自分ではないものに思いを馳せている感じ」だろうか。

たとえば、部屋から窓から、ゆっくりと流れてゆく雲を見ると「心が開かれた感じ」になる。
片手に温かいコーヒーでもあれば最高だ。
だけど僕が本当に好きなのは、窓の外を眺めることじゃない。「開かれた感じ」だ。
曇りの日は「開かれた感じ」がしない。夕方が過ぎ、街も暗くなると、今度は逆に「閉じられた感じ」がする。これはとても悲しい。
たとえば、日々の雑事のことで心がいっぱいだと、全くような空模様でも「開かれた感じ」を得ることは出来ない。

改めて書く。僕が好きなのは、本当は音楽でも、歴史でも、科学でもない。
「特定の心の感じ」なのだ。
たとえば音楽というジャンルはは、この「開かれた感じ」を与えてくれやすいという話だ。(本当にありがとう、音楽!)


だが、自分をいったん「音楽好き」と決めてしまうと、そこから錯誤は始まる。
人間が信じる「言葉のラベル」は、いつの間にかすり替えをおこない、個人の行動を変えるようになる。
「より良い音楽を聴くこと」で「より良い気持ちになれるはず」という前提にもとづいて行動するようになる。
「MP3音質の Apple Music より、 CD を WAVE音源で iTunes に入れた方が良いだろうか」なんて考えたりするようになる。
(もちろん音質の低いよりは、高い方が音楽通の好みではあるが)

「自分の好みのジャンル」を決めてしまうことの欠点は、ここにある。
つまり、本当に欲しいものが得られないのにも関わらず、そのラベル基準での行動を続けてしまうことだ。
そして「○○が好きだ」と決めつけは、自分のアイデンティティとなり、今後はアイデンティティへ基準での行動が始まる。
既に僕たちは「本当に好きな感覚」からは、程遠い場所まで来てしまっている。


では僕たちは、どうすれば良いのだろう?
自分を「音楽が好きな人間」だとか「歴史が好きな人間」だとかいうアイデンティティを決めずに、生きてゆくことが出来るのだろうか?
(それで本当に欲しいものが手に入るのだろうか?)


ポイントはいくつかあると思う。
自分が本当に好むのは「無形のもの」だと忘れないでおくこと。
そして、自分自身の傾向を知っておくこと。
そのために役立つものを覚えておくこと。
(僕の場合、最も重要なキーとなるのはおそらく、想像力だろう)

「特定の心の感覚」は、いつでも手に入るとは限らない。
だけど僕は「音楽がそれを与えてくれやすいこと」を知っている。
時には読書が、それを与えてくれるかもしれない。

だけど、僕が欲しものは「心が開かれた感じ」だ。
心が開かれた感じになるのは、想像力が喚起されたときだ。
音楽や本は、この想像力を喚起させてくれるための触媒だ。

「目的」と「鍵」と「触媒」。
たとえばこのように構造を分けて考えると、頭の整理がつきやすいように思う。

世間に散らばっている「ジャンル」は、あくまでも触媒に過ぎない。
僕たちは、まったく触媒がないときよりも、触媒があるときの方が、自分が好むものにアクセスしやすい。
だがそれはあくまでも触媒であって、僕たちが求めるもの本体ではないということを。

そして、自分が好む「特定の心の感覚」は何なのかということを、目を閉じて、ゆっくり考えてみるのが良いだろう。
(実際に、僕がこのことに気付いたのは、瞑想中であった)


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