2017年2月26日日曜日

「自分を幸せにすること」が夢で何が悪いの?

僕たちはそれぞれ「自分」を1個ずつ与えられている。
この1個の幸福のために生きることは、決して悪いことじゃない。

「自分の幸福を追求する」というと、どことなくエゴイスティックな感じを受ける。
なにか悪いことをしているような気分になる。
だけど、いちばんよく自分を知っているのは自分なのだから、幸福になる方法を一番よく知っているのも自分のはずだ。

だから「自分」を幸福にする役割は、それぞれの「自分」に与えられていると考えられる。


ところで、

自分「が」幸せに「なる」こと
自分「を」幸せに「する」こと

このふたつは、似ているようで微妙に違う。


後者の「自分を幸せにする」というのは、自分という存在を客観視して、
「こいつを幸福にしてあげよう」と見守ってあげることだ。
「自分」が「自分に与えられた命」を幸福にする、と考えても良い。


自分は、他人だ。
自分を幸福にするということは、ひとりの他人を幸福にするということだ。



僕らは、もし長ければ100年もの間、ひとつの命と付き添っていくことになる。
この「自分(1)」という奴は、ずっと「自分(2)」と一緒にいて、すべてを経験することになる。


世間ではこう言われる。

自分のことしか考えていない人間はエゴイスティックだ。
他人に貢献するほうがずっと良い生き方だ。
マザーテレサは多くの他人に愛を与えた。
キング牧師は多くの他人の幸福のために生きた。
だから偉い。だから尊い。


だけど、僕らがそれぞれ1個ずつ与えられた「自分」というやつを幸福に出来ないとしたら、それは他人に貢献できないことよりも、ずっと罪深いことではないだろうか。


この世界にいま70億人ぐらいの「自分」がいるとしよう。
それぞれがまず、この「自分」というやつの幸福に貢献することが出来る。


僕は今朝、このように考えた。


世間においては「自分の幸福のために生きる」ということは、エゴだといわれる。
事実、他人に迷惑をかけながら、自分の快感だけをむさぼろうとする人もいる。
だけどその反対に、自分の幸福を否定して、いつまでも幸福になれない人もいる。

もちろん他の人を不幸にしてはいけない。
だが「自分を幸福にすること」自体が、尊いのだ。
たとえ、それが社会的に何の役にも立たなくても、外面的には何を成し遂げなかったとしても、尊い。

こう考えてみよう。
たとえば世界中の70億人すべてが「自分の幸福」を否定したとしたならば。
誰がどれだけ「他人」に貢献したって、誰ひとり幸福になれるはずがない。
なぜなら、誰もがすべて、自分の幸福を否定しているのだから。


その逆に、70億分の1の生命を幸福にすることは、70億分の1に貢献することだ。


僕は意識のベースの部分で、自分を1個の、尊重すべき対象として扱えていなかった。
最も大事な対象であるはずなのに。


「夢」というと、他人を助けることや、外面的な成功を成し遂げることが認められる。
まるで、世界の中で「自分」だけを空洞にして、ほか全ての「他人」を埋めようとしているような感じだ。


けれど「自分を幸せにしてあげること」が夢で、一体何が悪いのだろう?



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