2017年2月2日木曜日

評価というゲーム | 美味いチョコレートと良いチョコレートの話

「このチョコレートは美味い」
「これは良いチョコレートだ」

この二つの微妙な、けれど明らかな違いに、あなたは気付くことが出来るだろうか。

両者の違いは「性質」と「価値」である。
そしてこの二つは、あまりにも、たやすくすり替わることが出来る。
そして、このすり替わりは、我々の意識に膨大に起こっているものだ。


「チョコレートが美味い」というのは性質であり、さらに言えば体験の話だ。これは実体を持っている。
「これは良いチョコレートだ」というのは評価の話だ。これには実体がない。
我々は「美味しいチョコレート」ほど「良い」と思っている。
けれど「美味しいチョコレート」は必ずしも「良いチョコレート」ではない。
そして「不味いチョコレート」も必ずしも「悪いチョコレート」ではない。


我々はなにかと「評価」をしたがる。そして「価値の序列」を付けたがる。
「価値体系の創作」は我々が大いにはまっている、共通の趣味だ。
この趣味はあまりにも習慣として根付いているので、我々はたとえどのような物事に対してであっても、瞬間的に評価を加えずにはいられない。
「評価」というデコレーションは、無意識と意識の欠片のひとつずつに、まるでまんべんなくまぶしかけられているようだ。


チョコレートを良いと評価しても、悪いと評価しても、対して我々の生活に影響はないと思うかもしれない。
けれどいったんこの「評価」が人間に、そして自分自身に向けられた時、我々は無限にも思える迷路の中で迷い続けることになる。

たとえば「親切な人」がいる。だけどその人は実は、良い人でも、悪い人でもない。
我々の評価が、その人に価値を与えているだけだ。
たとえば「男らしい男」がいる。だけどその人は実は、良い男でも、悪い男でもない。
我々の評価が、その男に価値を与えているだけだ。
これが強がりだと思うだろうか? もし思うなら、あなたはその時点で、やはり自分や人に「評価を加えている」ことになる。
「評価」は「実体」ではない。我々の空想だ。


だが、評価することをまったくやめられると言っているわけではない。
そもそも、人間が評価を完全にやめることは不可能だ。
だが「評価する」ということがゲームだと理解しながら遊ぶことは出来る。




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