2017年2月13日月曜日

自分の話が大好きな人 | 人間ブラックホールさん

自分の話が大好きな人。

なんでも自分の話にしてしまう。
まるでブラックホールだ。

Aさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。
Bさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。
Cさんに話を振っても、いつの間にか話は、ブラックホールさんに吸い込まれている。

良心のある人は、はじめは抵抗をみせて、他のいろいろな人に話を振る。
だけどそのたび、やっぱり全てが吸い込まれてしまう。
そして最後には、抵抗する気力もなくなって、ブラックホールさんのなすがままの世界がやってくる。

もしブラックホールがおじさんなら、
口癖は「私の若い頃はねえ」かもしれない。
もしブラックホールが若い男なら、
口癖は「俺の場合はさぁ」かもしれない。

ブラックホールさんは絶対に、人の話を聞かない。
というより、そもそも聞き方が分からない。
コミュニケーションのとり方が「自分の話」の1種類しかないのだ。
メニューをひとつしか出さない、がんこ屋の食事処みたいだ。

だからあいづちを打つときも、自分の話がしたくて、口元がそわそわしている。
そして0.01秒の隙さえあれば、必殺技を繰り出すのだ。

「完全吸収・ブラックホールパワー!!!」

彼の話に、最初、皆はうんざりする。
だけどブラックホールさんの話は、よく聞くと、わりと面白かったりする。(ブラックホールの種類にもよる)
ブラックホールさんは、自分の世界を持っている

ブラックホールさんが世界の99%を支配して、数千年が経った頃。
僕らはブラックホールさんの支配下に置かれ、彼の世界を楽しむしか、生きる術がなくなる。


良心を保ちながら、ブラックホールさんに勝つ手段は、僕らには用意されていない。
僕ら自身がもっと大きなブラックホールになって、彼を吸い込んでしまうぐらいしか残されていない。


2017年2月8日水曜日

「良くなる」と「幸福になる」の違い | 「劇的に良くなる」の嘘

「劇的に良くなる」というのは、嘘だ。

僕たちは今までの人生で「これをこうすれば、劇的に良くなる」という謳い文句や、自分自身で生み出した妄想に踊らされてきたんじゃないだろうか。
「この世の中の、どこかにもっと、素晴らしい手法があるはずだ」という期待を、ぼんやりと抱いている。
「黄金のキーさえ見つければ、人生は好転するはずだ」という思惑を、そこらかしこの小さな領域で見つける。
この考えはあまりに無意識下に浸透しているので、自分たちがそう考えていることにすら気付かないほどだ。

だが、淡い期待よりも、事実を考えることが大事だ。よく振り返って、思い出してみてほしい。
今までの人生の中で「劇的に何かが改善したこと」など、果たしていくつあっただろうか?
「劇的に改善したこと」と「劇的には改善しなかったこと」の、一体どちらが多かっただろうか?
(もし前者が多かったというならば、あなたはきっと頭が良い人だ。こんな記事を読む必要はまったくない)

未来に対する期待ではなく、過去の事実から考えてみよう。
多くの場合、僕たちは驚くほどに、ほんの、わずか少しずつしか良くなっていくことが出来ない。
だが僕たちは、その事実を認めることが、どうしても出来ない。
だって、もし人が「大樹のようにしか成長できない」ならば、一体どうやって、この不幸から抜け出して、幸せになれば良いというのだろう?


だがそれと同時に、僕たちは理解していない。
ひとつ言えるのは「劇的に改善するはずだ」という思い込みこそが、本当に有害だということだ。
この世の摂理として、大きく期待すれば、大きく裏切られるのは当たり前の話だ。
だけど僕たちは、まるで一夜漬けをする学生。もしくは、負け続けのギャンブラーみたいだ。
毎回裏切られるために、毎回、物事に大きな期待を抱く。
そして、僕たちの見積もりは、いつも、だいたい、大きく間違っている。
1のものを10の見積もりし、逆に10のものは1だと見積もっている。


僕たちの本能は「短期間で劇的な成果を得ること」を求めようとする。
「獲物が得られるか、それとも、得られないか」。
狩猟民族の本能が刻みつけられているのだろうか?
それともこれは、日常で延々と脳に刷り込まれるTVCM、車内広告、ウェブ広告のせいなのだろうか?


そして、僕たちは「良くなること」は「幸せになれること」だと勘違いしている。
「劇的に良く」なれば「劇的に幸せに」なれると信じ込んでいる。
だけどこれは、ものすごくはまりやすい罠だ。
1+1=2 だと思うだろう? だけど「良さ」と「幸せ」は必ずしもつながっていない。

僕たちの思考の根底には「良くなれるはず」という信条と「良くなれば幸せになれる」という、二段階の思い込みがある。
そして現代においては「良くなることこそが良いことだ」と定義づけられている。
だからこそ「世界を変える」というメッセージを、スティーブ・ジョブズや、他の先鋭的な人が送り続ける。
だけどついに iPhone を手にした人類も、前より幸福になったとは限らない。


「良くなれば幸せになれる」と考えることは
逆に「良くならなければ、幸せになれない」と考えることだ。
だから僕たちは、急に良くなれない自分に焦りを感じるし、もどかしさを抱く。
だがこの二つを分離して考えてみよう。

人は短期間で劇的に良くなることもないし、たとえ劇的に良くなったからといって、劇的に幸せになれるとは限らない。
「二段階の思い込み」によって、僕たちはいつでも幸せに近づきそこねるし、いつでも期待を裏切られてばかりだ。
「成長による幸福の増加度」を「期待を裏切られる不幸の増加度」が、常に上回っている。
だけど僕らは、自分自身の思い込みを捨てるのが癪なので、幻想を持ち続ける。



人の幸福に関しては、必ずと言って良いほど、逆説の力学が働いている。
(もしそうでないのなら、どうしてこれほど多くの人が幸福を掴み損ねているのだろう?)
そのうちのひとつの法則。
「良くなれば、幸福になれる」という思い込みを捨てることで、僕たちはむしろ幸福に近づく。

世間で言われている「成長」のイメージに、大きな価値を置いてしまうのは危険だ。
たとえ、それは1割の部分では当たっていたとしても、残りの9割は過剰な見積もりだからだ。
僕たちは必ず成長するとは限らない。
ただ、自分の心の扱いを、ちょっとだけうまくすることなら出来る。


マインドフルネス | 未来の不安は、今の不安。(日曜日は月曜日を夢想する)

僕たちは未来について思い悩んでいる時、心は架空の時間に位置する。

未来のことを悩むこと。これをやめるのはなかなか難しい。
なぜなら、思い悩むのをやめて「現在」に集中しようとも、未来は消えたりはしない。
消えないものを考えないようにする。こいつは難易度が高い。
未来はいつでもすぐ先にあって、僕たちを脅かす。

現在にだけ生きることは、未来に「見てみないふり」をすることだ。
見ないふりをしても、現実の未来は消えてはくれない。
だから現在に集中することは、まるで欺瞞のように思えてくる。
未来を思い悩んでいる時は、まるで未来が固定された現実であるかのように思えてくる。
思い悩んだことの多くが取り越し苦労だとしても、僕たちは悩むのをやめられない。

だけど本当は「未来に対する不安」というのは「現在の不安」の一形態なのだ。
「未来を思い浮かべる」という心の働きのせいで、僕たちは、自分たちの存在までも、未来に位置しているかのように感覚しがちだ。
だけどこれは錯覚だ。僕たちは決して「未来に存在している」わけじゃない。存在することなど出来ない。
「未来という架空の現実を思い浮かべながら、まさに今に存在し、思い悩んでいる」のだ。

「未来の悩みは、未来には無い」
「未来の悩みは、今の悩み」
「今の瞬間の、架空の心の悩みだ」

そう理解した時に、未来の悩みにはずっと対処しやすくなる。
なぜなら「未来」は、僕たちが空想で作り上げるものだ。
少なくとも未来の自分がどんな気持ちで過ごすかは、実際に未来が現在に来てみなければ、分からない。

僕たちは同じ未来に対して、解釈の仕方が本当によく変わる。
同じような未来に対しても、強い不安を感じる時、弱い不安を感じる時、不安を感じない時、希望を感じる時がある。
これは未来が変わったのではなく、僕たち自身の理解が変わったからだ。
これは未来実は固定された現実ではなく、次々と移り変わる、現在の状態に過ぎないからだ。


たとえば日曜日の夜に、月曜日の朝という未来が憂鬱に感じられたりする。
だけどその時の敵は「やがて来る月曜日の朝」じゃなくて「思い悩んでいる日曜日の夜」そのものだ。




2017年2月7日火曜日

マインドフルネス | 「適切な備え方」「不適切な備え方」

マインドフルネスの教えでは「常に、今現在に注意を向ける」ことが勧められる。
僕たちはとかく、未来や過去に心を奪われがちだから、これは多くの場面で有効なやり方だ。

だけど字面のとおり、今現在だけに注意を向け続けるのは、ある意味、不安なことでもある。
なぜならたとえば、僕が職場にいない時には、本当に仕事のことを考えなくても良いのだろうか?
決して将来の計画を考えずに、幸せな人生を送れるのだろうか?
今現在だけに注意を向けていないと、とっさの時に、危険に対処できないのではないだろうか?
という疑問が浮かんでくる。
「全く未来を気にしない状態」にも、心は不安を感じるようだ。
(厳密に言うと、それも未来を気にする心の一形態なのだが)

最近思い至ったのは、これは単純な二元論ではないということだ。
書籍「GO WILD」には、この「対処できるように、備える」という心の状態について、奥深いことが述べられている。
「未来について過剰に思い悩まず、なおかつ、適切に備えている」という状態が存在するのだ。

瞑想 の 平穏 な 状態 とは 困難 が ない 状態 では ない。 警戒 心 や エネルギー の 消耗 が ない 状態 でも ない。 むしろ、 脳 は いつ でも 反応 できる よう 注意 し、 警戒 し て いる の だ。 これ は ホルモン 分泌 の 仕組み と まったく 同じ だ。 
「いつ でも 反応 できる よう 注意 し、 警戒 する」 とは まさに 狩猟 採集 民 の 精神状態 だ。 進化 の 導き により、 わたし たち は 注意・警戒 する こと で 報酬 が 得 られる よう に なっ て いる こと が わかっ て き た。 それ も その はず だ。 わたし たち にとって 理想的 な 状態 とは、 騒音 が あふれる 状態 でも 静まりかえっ た 状態 でも なく、 ストレス が ある こと でも リラックス し て いる こと でも なく、 満腹 でも 飢餓 でも なく、 起き て いる こと でも 眠っ て いる こと でも ない。 両極 の 間 で 体 が うまく バランス を 保っ て いる 一点 が、 その 人 にとって 理想的 な 状態 なの だ。
ジョンJ.レイティ; リチャード・マニング. GO WILD 野生の体を取り戻せ! 

なるべく「今現在」に注意を向けながら過ごすとしても、杓子定規に100%そうしなくても良い。
対象が適切であれば、適切な「備え方」をするのが良い場合があるということだ。

そして、時と場合に応じて「適切な備え方」と「不適切な備え方」の種類が生じる。
一律に備えること自体が「良い」「悪い」というものではない。

たとえば朝、会社に向かって歩く時、
その日の仕事の段取りを考える事は「現在に生きていること」ではないが、適切なことだという場合がある。
なぜなら、それによってちゃんと仕事が回せるようになるなら、ちょっとだけ未来について考えるのも、悪いことではない。
たとえば、街を歩きながら、車に気をつけて歩くのも「適切な備え方」だ。なぜなら、車に全く気をつけなければ、轢かれて死んでしまうから。

だけど街を歩きながら「5年後の働き方」についてネガティブな空想をするとしたら、それは「備えすぎ」だ。適切な備え方ではない。
たとえば道で見かけた看板に気を取られて、ありもしない妄想に悩み始めるなら、それも適切な備え方ではない。

心の70%は現在を生きて、残りの30%で「適切な対象」に対して備える、ということも出来るはずだ。

2017年2月5日日曜日

「あなたの夢は何ですか?」に返す言葉(と、返さない言葉)

「あなたの夢はなんですか?」
「人生の目標は何ですか?」

人からこのような質問をされると、僕には、ひとつも返す言葉がない。
返す言葉がないから、そのかわりに疑問を抱く。
「なぜ、人に夢があることを前提で質問するんだろう?」
「なぜ、人生に目標が必要だと思うんだろう?」
といった反発を感じる。

だけど同時に「やっぱり、人生には夢があったほうが良いよな」とも考える。
そして、人に言える「夢や目標」がない自分を、強く恥じることになる。
次に、強い夢や目標を持つ人間の輝かしさを、心から羨ましく思うのだ。
「夢を持っているのは、自分とは違う人間だ」「人間としてのスケールが違う」と思う。そして「そんな価値の高い人間に、自分もなりたい」と思う。


夢と言えば。世の中にはスケールの大きな人間がいる。

キング牧師は「私には夢がある」とスピーチで語った。
マザーテレサは多くの人に慈愛の行為をおこなった。
イチローは自分の目標を立てて、それを忠実に実行した。
ワンピースのルフィは「俺は海賊王になる」と心に誓った。

きっとこのような大きな夢を持って生きるのが、人間にとって、もっとも重要なことなのだ。
大きな夢に従って生きるということが、真に目覚めるということだ。
きっと、最高の人生を送ると共に「周りの人に貢献する」という重要な使命を果たせることだろう。
それほどに「夢のある人生」「目標のある人生」の魅力は強烈で、輝かしいものだ。
(でなけれは、どうして「友情・努力・勝利」を謳う「週刊少年ジャンプ」があれだけ読まれ続けているのだろう?)


だが僕は、いつまでも人に言える夢を持たないままだ。
なのでどうにか、この質問を受けた時の「切り返し」を作っておこうと考えた。

だが「いつまで考えても、答えが出ない質問」というのは「そもそも問題定義自体が間違っている」というのが僕の昨今の考えだ。
そうすると「夢や目標は何ですか」というこの質問も、少なくとも僕に対しては、問題定義自体が間違っているのかもしれないと考えた。

人に「あなたの、夢や、目標」について聞かれた時、
まず、このような質問においては「夢や目標」というものの定義が、非常に狭いのではないか。
何か社会的な貢献をしたり、大きな成功をしたり、仕事上のキャリアアップをしたり、
というものが「夢や目標」と呼ばれる。
だから僕たちの文化において、広く認められているものだけが「夢」や「目標」と公言することが出来る。

夢や目標には条件がある。

- 社会的貢献や、社会的成功と結びついていること
- 社会において公に認められていること
- 社会において理解しやすいものであること(人に伝わりやすいこと)

この条件をすべて満たす「夢や目標」は、僕にはたやすく出てきそうにない。


たとえば男性であれば「年収をいくらにする」と言えば、まあ極めて俗世的ではあるが、社会的承認を得た目標だと認められることだろう。
だが「アルバイトで一生を過ごすこと」というのは、たとえどんなに本人が強く望んでいても、夢だとは認めらない。

たとえば女性であれば「結婚して子どもを生むこと」「幸せな家庭を作ること」は夢だと認められる。当たり前だが、社会的承認も得ているし、社会に貢献することだからだ。
だけれど「生涯を独り身で過ごしたい」というのは、夢や目標としては承認を受けない。

「いつか、自分の店を持つ」
「いじめをなくしたり、貧困をなくすような、社会的貢献をする」
「ハワイに拠点を持ちながら、バリバリ稼いで、世界中を飛び回る」
どれも人に伝わりやすくて、説明に困らない夢ばかりだ。

だが、ちょっと変わった趣向を持つ人は、たやすく人に承認を受ける夢はない。
当人にとっての夢(と言えるもの)を語ったところで、周りに理解を得られる確率は低い。

たとえば僕が「瞑想を通して、心の平穏にいつでもアクセスできるようにしたい」と語ったとしよう。
だがきっとそれは「夢や目標」としてはカウントされないんじゃないだろうか。
なぜなら、これは自分個人の課題であって、誰か他の人に貢献するものではないから。
そして、社会的な成功ともまったく結びついていないからだ。
「心の平穏? 勝手に追い求めてください」という話になる。

たとえば僕が「毎日、ごはんを美味しいと感じながら食べることが、僕の夢です」と語ったとしよう。
これも同じように、夢や目標としてはカウントされないだろう。
なぜなら「小さすぎる」からだ。(夢や目標は「大きくなければいけない」という暗黙のルールがあるらしい)
そして「進歩的」ではないからだ。
ご飯を美味しく食べることは、夢や目標とは言わない。


ところで。

キング牧師やマザーテレサは、自分の夢を語ったり、理想を実行したりはしたけれども、周りに対して「あなたには、夢や目標がありますか?」とは聞かなかった。
(いや、本当は聞いたかもしれないが、少なくとも、彼ら・彼女らが評価されるのは周りに夢や目標を聞いたからではない)


「夢はありますか?」
「目標はなんですか?」

と聞くかわりに、こうたずねるのはどうだろう。

「あなたにとっての、一番幸せな生活とはなんですか?」
「どんな世界なら過ごしやすいと思いますか?」

と。

僕はもしこう聞かれたら、
「職業・能力・年収・結婚・年齢・性別・夢の有無などの違いによって、価値の序列付けがおこなわず、すべての人がより洗脳を解かれた世界」だと、ちょっと危ない回答を返すことだろう。


僕には夢がない。

人に言える夢は。





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だが、当初の目的を果たすために、世間向けに少しでも分りやすい「僕の夢」のフレーズを書き留めておこう。

僕が理想とするのは。。

- 夢によって洗脳されない世界
- 夢の大小で評価を変えない世界
- 夢を持たないことを認める世界
- 目標を持たなくても自尊心を保てる世界

「最後に後悔しないのが良い人生」の嘘

僕たちは、人生を良いものにしたいと考えている。
「悪い人生を送りたい」と考えている人は、ひとりもいない。

だが「良い人生」とは一体なんなのだろうか?

僕たちは「良い人生」を道で見かけることはない。
その影や形を見ることはない。
「いま、良い人生が訪れた」と感じることも、まあ、ほとんどない。
まるで「良い人生」は、架空のどこかの場所に存在するかのようだ。
そもそも、まったくのフィクションなのではないだろうか。

仮に、自分にとって「良い人生」を、一瞬だけ想像できたとしよう。
「こんな生き方が出来たなら、きっと最高だ」という思いが、脳裏をよぎる瞬間があったとしよう。
だがそんな情動は、おそらく瞬く前に終わってしまう。
きっと残りの多くの時間は、雑事や悩みに気を取られたり、他の人間を羨んだりして過ごすことだろう。
そして、時間というものはあまりにも早く流れてゆく。
挽回のチャンスは刻々と失われていき、あなたが「人生を良くするための時間」は、しまいには取れずじまいだ。


人生というものは、時間に依存している。
たとえば、人生の90%が過ぎた頃に「人生を良いものにしたい」と考えても、既に圧倒的な敗北が決まっている。
なぜなら、もし仮に今までの90%が悪いものだったとすれば、残りの10%を良いものであったとしても、人生全体を考えれば敗北ではないか。
残りの10%を良くすることに、一体、何の意味があるだろう。
むしろ、仮に90%が悪いものであったなら、残りの10%も悪いものになる可能性の方がはるかに高い。
僕たちが人生に勝つということは、これほどまでに難しい。


ここで、人生に対して、もうひとつの理解を生み出すことが出来る。
それは「人生の最後に笑って死にたい」というものだ。
人生の中間地点は、言ってみれば、どうでも良い。評価の基準にはならない。
最後の瞬間を心から満足して、後悔なく死ねたなら、それは、きっと良い人生のはずだ。
「死ぬ時に、後悔のない人生」を目指すこと。
「人間にとって最も大事なこと」は、死を考えるからこそ見えてくる。
死を基準に、生を理解する。
これこそが人生の本質であり、究極の人生論だ。

これに気付いた人間は「最後の瞬間」について、ことあるごとに考えるようになる。
もちろん最後の瞬間には、ひとりきりで死にたくはない。家族や友達に囲まれて死にたいと思う。
「やり残したことはひとつもない」「後悔はひとつもない」「完全に満足だ」「全てのことをやりきった」と思いながら死にたい。


だがこの理解にも大きな欠点がある。
そもそも一体どうして「人生の最後」によって、人生の価値が決まるのだろう?
なぜ「途中の地点」は評価の対象にならないのだろうか?
たとえば今日、心から満足して1日を終えても、人生の最後に笑えなかったならば、それは「悪い人生」と評価されるのだろうか?

そして現実問題として「人生の最後に満足しよう」という目標は、功を奏すのだろうか?
今までと同じ、平凡な生き方をしていては「良い人生」を終えられないのではないだろうか?
何も特別なことが起こらない今日は「人生の最後の満足」に寄与するのだろうか?
むしろ遠ざかっているような気がするけれど?


このように「人生の最後」を基準に人生を考えたとしても、それは個人の幸福につながるとは限らない。
「人生の最後」という価値観にとらわれて「今日の日」や「今の瞬間」をないがしろにするとすれば、それはきっと不幸なことだ。

僕たちはそもそも「人生」という価値観に染まりすぎじゃないだろうか。
ひとつの話に、たとえば老人ホームに入った人が後悔するのは「やったことよりも、やらなかったこと」だとか「仕事ばかりで、家族と過ごさなかったことだ」と言われたりする。

こんな話を聞くと、僕は「人生の本質」を教えられたような感じがする。
「今やりたいことをやらないと、最後には後悔するんじゃないだろうか」
「家族や友達を大事にしないと、最後に後悔しそうだ」
と考えて「人生の本質」なるものを、大事にしようと心に誓う。

だけどそもそもの話として、人生の最後に人間が後悔するのも、「良い人生」という概念に、僕らが毒されているせいではないか?
そもそも「人生」という概念自体、僕たちの空想から生まれたフィクションだ。
フィクションを基準にして考えれば、価値の本質は、そのフィクションの体系に依存する。


そして、人の死はいつ訪れるかは分からない。
すべての人が家族に看取られながら、平均寿命ほどまで生きられるとは限らない
もし明日、事故や何かの偶然で死んだなら、きっとあなたは満足など出来ないはずだ。
なぜなら、今日だって自分に満足できていないのだから。
だが、それは果たして「悪い人生」なのだろうか?



僕のススメは「良い人生」というもの自体が、僕らの空想であり、フィクションであると理解することだ。
人には、良い人生も、悪い人生もない。
そもそも「人生」という概念自体が空想であり、僕たちはただ存在するだけだ。

「人生という空想」に取り憑かれるのは不幸だ。
この洗脳を捨ててしまった方が、より幸福度が高く、不幸度の低い過ごし方が出来るだろう。
特に「人生」なんていう、あまり人が気にしないものを、真面目に考えてしまうような人にとっては。


(だけどもし「人生」というフィクションが気に入っているなら、別に無理をして捨てる必要はない。それがあなたにとって、幸福度の高い理解なのかもしれない)

あなたとスティーブ・ジョブズの価値の違い [価値付けの種類を考える]




A. [社会的な価値付け]

あなたの価値よりも、スティーブ・ジョブズの価値の方が、はるかに高いと考える。

あなたの価値: 1
スティーブ・ジョブズの価値: 100


B. [ヒューマニズムによる価値付け]

あなたの価値も、スティーブ・ジョブズの価値も、全く同じだと考える。
だが、まだ「価値」というメーターは存在する。

あなたの価値: 100
スティーブ・ジョブズの価値: 100


C. [ニヒリズムによる価値付け]

あなたにも、スティーブ・ジョブズにも、まったく価値はないと考える。
だが、まだ「価値」というメーターは存在する。

あなたの価値: 0
スティーブ・ジョブズの価値: 0


D. [価値付けからの逃亡]

あなたにも、スティーブ・ジョブズにも、そもそも価値付けをしない。
価値というメーター自体を手離してしまう。

あなた
スティーブ・ジョブズ


E. [ゲームとしての価値付]

Dと同じく、個人の存在においては、価値付をしない。
社会的価値付があることは受け入れるが、これがいわばゲームにおける、仮のメーターであると理解する。

 - 個人の存在において

あなた


スティーブ・ジョブズ

 - 社会(ゲーム)において

あなたの価値: 1(仮)
スティーブ・ジョブズの価値: 100(仮)